・ペル・メル・ガゼット紙 pallMallGazette 1883年10月16日以降、都市スラム問題解決のためのキャンペーンを精力的に展開。 編集長W・T・ステッドWilliam Thomas Steadの方針 パンフレット「悲痛な叫び」(1883年10月)の内容を紹介する記事を掲載。続いてそれに対する読者からの投書を掲載。さらに社説を通じて、国家による抜本的な住宅対策の確立を訴えるなど。
・マーンズとプレストンのパンフレット以前の、スラムを扱った著作 E・チャドウィグ、H・メイヒュー、チャールズ・ディケンズCharlesDickensなど。また、スラム住民の生活風俗を報じた新聞記事もあった。 メイヒュー『ロンドンの労働とロンドンの貧民』London Labour and the London Poor)(1861年〜62年全四巻)は、それより以前にメイヒュー自身がモーニングクロニクル紙MorningChronicleに発表した記事(1849年〜50年)を元に書いた。
・パンフレット以前のスラムに関する記事 『ピクトリアル・ワールド』紙PictorialWorldとデイリーニューズ紙DailyNewsは、マーンズとプレストンのパンフレット(1883年10月)が出版される数カ月前から、貧困についての連載を掲載していた。著者はG・RシムズGeorgeRobertSims。マーンズとプレストンがパンフレットを作成するにあたってシムズの記事を参考にしたことが明らかになっている。(シムズ自身、『貧民の生活状態と恐怖のロンドン』How the Poor Live and Horrible London(1889年)と題する書物の中で、パンフレットの作者から自分の記事を参照したいとの申し出があったので許可した旨を記している。 つまりマーンズとプレストンのパンフレットが貧困への認識を啓蒙した最初の文書ではなかった。しかしながらこのパンフレットが特に社会に大きな反響を呼び起こした理由は、このパンフレットがスラムの存在を、一刻も放置できない社会の問題として読者大衆の脳裏に強く印象付けたことにあった。読者はリアリティとしてのスラムの実態をつきつけられた。「暗黒の世界」「泥沼」「裂け目」「洪水」といった言葉言葉を用いて読者にイメージを植えつけたからだった。 したがって、1883年10月以前にスラム問題を報じた新聞雑誌が多く存在したとしても、マーンズとプレストンのパンフレットのインパクトはまったく損なわれない。むしろこの流れの中にスラムに対する社会の眼差しと感受性が形成されていった課程を読み取れる。
・救済貧民と労働者の線引き ブースは社会問題に対処するために、まずは救済に値する貧民を選別することにした。労働者をAからHのグループに分けた。 A 臨時日雇い労働者、浮浪者、順犯罪者など最下層 B 不特定所得者…「極貧者」 C 非定期所得者…「貧困者」 D 定期的小学所得者…「貧困者」 E 定期的標準所得者…貧困線以上 F 上層労働者 G 下層中産階級 H 上層中産階級
パンフレットの価格は1ペニーであった。廉価であったことと、新聞が積極的に取り上げたことで一大センセーションを引き起こした。宗教関係者、社会運動家、政治家など知識階級が興味を持った。 ウォールAnthony S. Wohlによればパンフレットの出版を境に急激にイングランドじゅうがスラムの現実に関する認識を持ったそうだ。