16〜19世紀イギリスの娼婦 歴史・風俗 2012年02月26日 川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年この書籍より詳しくまとめ。売春婦について。1959年 路上犯罪法(ストリートオフェンシズアウト)制定。最盛期のロンドン…60件に1件が売春宿…女性の16人に1人が売春婦古代、中世、ルネッサンス、どんな時代にもイギリスには売春婦は存在した。(世界中に存在した)16世紀の娼婦教会の勢力がまだ強く、夫婦間でも性道徳の制約が厳しい・夫婦間で過度に愛欲を抱くことの禁止・水、金、土セックス禁止・クリスマス前40日セックス禁止・イースター前40日セックス禁止・体位の限定(正常位のみ)→男性間に募る正欲求例外は教会の売春奨励地域であった。テムズ川南岸サザックSouthworkはロンドン市当局の管轄外にて、陥落施設が集まっていた。乱立する娼家。※闘犬場、熊いじめ(ベアベイティング)、賭博場、売春宿、劇場など※有名な劇場 シェイクスピアのローズ座やグローブ座など。その他劇作家P・マッシンジャー、J・フレッチャー、エドモンド・シェイクスピア、R・バーベッジ、P・ヘンズロウウィンチェスター主教によって立てられたウィンチェスターハウスという宮殿は、売春婦を公認して彼女たちからマージンをとっていた。また、宮殿内に上級階級用の高級娼婦を置き、荒稼ぎしていた。ピューリタン革命(1641〜1649年)の後は規制される。売春宿×賭博×劇場×が、強烈な個性を放っていたクロムウェルが死没すると共和制は瓦解し、人々の性的欲求もすぐに噴出した。庶民よりも上流階級が我慢出来なかった。政治家は特に娼家通いに熱心で、下院で法案を可決するために人数が足りなかったので娼家を虱潰しにして登院させたという記録が残っている。(1666年ピープスの記録)18世紀ロンドンの娼婦18世紀、娼婦の実態をよく伝えているのが、おなじみホガースの銅版画と、ジェイムズ・ボズウェル(1740〜95)の「ロンドン日記」。ボズウェルは赤裸々にロンドンでの性生活を綴った。彼の収入は6週間で25ポンドだった。ささやかとはいうものの彼くらいの収入だと、朝食、正餐(1シリング)、夕軽食を外食して、理髪店に行き、友人を訪ねても余裕で暮らせた。家には女中を雇っていて、帰宅すると足を洗ってくれた。時々ちょっと高めのビーフステーキを食べたり、闘鶏場でギャンブルしたり夜会にでたりできた。娼婦を買うこともできたが、ボスウェル自身のポリシーで6ペンス以上の娼婦は拾わなかった。彼はヘイマーで娼婦と遊んだ後、ウェストミンスター橋の上で再び情欲を起こして女を買ったりしていた。17歳の娘を買ったときは「不憫な子だな」と思ったらしい。当時は和姦年齢(エイジオブコンセント)は12歳だった。1885年にジョセフィン・バトラーによって女子16歳、男子14歳に引き上げられた。セックスに関する道徳律が強かった当時、少女は強姦であれ和姦であれ、一度セックスをしてしまったあとには「処女でない」という事実だけが残り、あとは売春組織の手に落ちるのがほぼお決まりであった。大東文化大学経営研究所第四回経営シンポジウム「ホガース銅版画展」図録遊女一代記http://www.daito.ac.jp/gakubu/keiei/Institute/zuroku/01-06.html豪華な生活の上流階級専門娼婦18世紀末〜19世紀生徒時代、パブリックスクールでのムチ打ち、木棒で打ち据える尻への体罰に快感を覚えた上流階級男性向けシャーロット街バークリー夫人の店顧客:金持ち、政治家、王太子ジョージ4世(!)などベッドフォード街コレット夫人の店コメント:18世紀からSMクラブ通いの男性がいたとは…。 PR