19世紀イギリスの貧困層 歴史・風俗 2012年02月27日 川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年この書籍より詳しくまとめ。19世紀、富者と貧者の二極化。ロバート・オーエン 人道主義立場からの社会運動、労働運動、社会主義運動。ヘンリー・メイヒュー(1812〜87)「ロンドンの労働とロンドンの貧民」※お金について。ボスウェルの給料は6週間で25ポンド。買っていた娼婦が一回6ペンス。ボスウェルが毎日とっていた正餐が1シリング。メイヒューの描いた人々・行商人(コスタマンガー)あらゆる商品を市場で仕入れ、屋台、荷車、手押し車、首から吊るした売り箱に入れて売る。掛け声の節回しで何を売っている行商かわかった。無学で活気があり、喧嘩、飲酒、賭博を好む行商が多かった。警官と衝突するとレンガや石などを投げつけて散る。仲間意識が強く、仲間内で隠語を用いた。同棲女性と入籍しなかった。子供が生まれると小さい頃から仕事を教えた。荷車、ロバの番、少し大きくなると商品整理や呼売の掛け声など。少年が14歳になると独り立ちして、ツレの女と共に商売を始めた。少年が少女に絹のマフラーを与えると結婚の代わりとなった。彼らにとって絹のマフラーは貴重品であり、マフラーは執着の対象(「王の臣」(キングス・メンと呼んで大事にしていたらしい))だった。貴重品であったために、女性にいちどは贈ったはずのマフラーを賭博の方に売り飛ばす男性もいた。「拾い屋(スカヴィンジャーズ)」たち・くず拾い、モク拾い行商人から見下されていた。収入は1日6ペンス。夜明けと共に街に繰り出して、釘を打った棒で落ちているものを拾う。シケモクを拾う仕事は日本で昔あったが、ロンドンでは今も健在。・「汚れ落とし(ピュアー)」探しただのくず拾いやモク拾いから見されていた。収入はバケツ1杯で1シリング2ペンス。ピュアーとは革の汚れを落とすための犬の糞で、バーモンジーの革なめし業者が大量に買い取っていた。・どぶさらい(トッシャーズ)収入は週2ポンド。下水道に潜って作業するためふつうのくず拾いより高度で危険。(ロンドンで下水道の完備は1865年。http://london.99ing.net/Entry/16/)装備はローソクの入ったカンテラ、シャベル、7フィートの竿や熊手。竿を使っても深みにはまってしまうことがあった。有毒ガスが発生しているところはローソクの炎が消えた。知らないところに出たら、カンテラからローソクを出して、熊手の先につけてローソクの炎が消えないことを確認して進む。汚泥の中から銀貨、銅貨、骨、銀メッキのスプーン・ナイフ、入れ歯、義眼、指輪、宝石などを拾った。・泥ひばり(マッドラーク)収入は1日平均3〜4ペンス。1ペニーしか稼げないこともあった。溝をさらうほど技術のない者、ほどんど老人、幼児、体の不自由な人だった。汚泥に一日中浸かっているので冬は大変な作業だったので蒸気工場から流れてくるお湯で足を温めた。泥に埋まっている釘やガラスは危険であった。汚泥の中から、基本的には石炭の燃えカスを拾った。船から落ちた鉄くず、銅くずが拾えるとラッキーであった。・さらい屋収入は様々。水死体は1体につき5シリング。(警察より)資本がある人が行った。泥ひばりとさらい屋には生活に雲泥の差があった。小舟一艘とおもりの付いた底引き網を所有。汚泥の中からあらゆる物を拾い上げた。金属や石炭が収入の中心であった。産業革命以降テムズ河を行き来する船の増加。橋げたをくぐりそこねた難破船も増加。高価な品、人が沈没した場合、懸賞金が出た。それらを拾い上げると一生安泰であった。懸賞金のかかった物はごく時々だった。水死体はちょっとしたボーナスになった。水死体の種類:沈没した石炭運搬船の乗組員、荷上げの人夫、自殺者。自殺者からは、遺体自体の報奨金5シリングのほか、金目のものが得られた。時計や財布、装身具など。「どうせ警察が横領するので」という言い分の元水死体を引き上げた本人が行った。自殺者が多かった場所はウォータールー橋。自殺者の職業で多かったのは売春婦。トマス・フッドがメアリー・ファーリーという女性の実在の自殺をもとに詩を書いた。映画「哀愁」の舞台にもなった。ディケンズが著作「われら共通の友」のなかでさらい屋を描いている。「デヴィット・カッパーフィールド」では売春婦の転落人生を描いている。 PR