フィールディング兄弟と警察制度 組織 2012年02月28日 川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年この書籍より詳しくまとめ。警察の発足ヘンリー・フィールディング劇作家としてウォルポール政権に対する風刺劇を上演。政府「検閲令」によって取り締まられ、法律家への道を歩みだす。1748年にウェストミンスター区主席治安判事となる。治安判事としての給料は年500ポンド(週9.6ポンド)であった。フィールディングは5この500ポンドを汚れたカネといい、300ポンドまで引き下げたが差額は結局彼の書記のものになってしまった。彼は「大怪盗ジョナサン・ワイルド伝」を著した。ジョナサン・ワイルドが処刑されたのは1725年で、フィールディングは18歳だったため実際のジョナサン・ワイルドの生活を知っていたわけではなかった。ダニエル・デフォーのワイルド伝記によって多くを知ったと思われる。これをもとにフィールディングはワイルド伝を書き上げたが、ときの首相ウォルポールを風刺したとして劇作家の道をたたれ、皮肉にもワイルドが創り上げた犯罪世界と戦わねばならなくなった。しかし、治安判事としてボー街に入ったフィールディングは、フィクションの世界よりもはるかにひどい現状を目の当たりにした。たとえばジョージ2世も追い剥ぎにあったし、ホラス・ウォルポールも「追い剥ぎ紳士」ジェームズ・マクレインの獲物になったなど、犯罪は多発していた。フィールディングは犯罪対策を始めた。まずは自分の身の回りから、賄賂を受け取らない、手数料を受け取らないなどを行った。つぎに、市民に向け、犯罪にあったら犯人に関する情報、人相、時刻、盗まれた品物などをフィールディング事務所に届け出るよう運動した。(被害届け)つぎに、警吏を確保した。ソーンダーズ・ウェルチを始めとする屈強な教区警吏6名を確保した。(イギリス刑事巡査の始まり)彼らはフィールディングと志を同じくした。フィールディング氏の一党は犯罪者の恐怖の対象になっていった。問題は警吏が無給であったことだった。警察制度の導入で税金をつぎ込む発想もなく、レッセフェールに反して個人の自由が失われると思われていた。もっとも効果的なのは犯罪を未然に防ぐことではなく、犯罪者逮捕への謝礼金だと思われていた。ジョン・フィールディングヘンリーの14歳年下の異母弟。19歳のとき失明したが、兄から学んで治安判事の資格を取り兄と共に働いた。ジョンは警官を有給にするために尽力した。ヘンリーが立ち上げた逮捕犯は、教区から泥棒がいなくなってしまうと報奨金がでないので一時的に中断されていた。ジョンは逮捕犯を復活させて、赤いチョッキを着せてより印象を強めた(「赤胸の駒鳥(ロビン・レッドブレスト)」)。一方で彼らに給料が出るよう運動を進めた。この逮捕版は実績を買われ、ロンドン全域を担当するまでになった。当時、夜警や個人的なパトロールはいたが、泥棒と示し合わせたりまったく役立たずであることも多かった。そこジョンは1763年、騎馬警官を発足させた。1805年には常時市内を巡回するようになった。ヘンリーが作っていた容疑者の登録簿はジョンによって発展して掲示記録保存局となった。陸軍相や各区の治安判事も協力して脱走兵や犯罪者に関する情報を交換するようになった。また、ジョンは若年犯罪の予防のため、海軍協会を設立した。売春婦増加に歯止めを掛けるために少女たちの孤児院や、売春婦を構成させるマグダレン感化院を設立した。ロバート・ピールによって近代警察が誕生する80年前のことであった。 PR