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19世紀イギリスについて、創作活動するために調べたこと。

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ロンドン監獄マップ

川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年
この書籍より詳しくまとめ。

サザークSouthwark
Wikipedia サザーク
ロンドン橋南、17世紀から19世紀までは監獄銀座状態だった。

マーシャルシー監獄 Marshalsea prison
キングスベンチ監獄 King's Bench Prison
ホースマンガー・レイン刑務所 Horsemonger Lane Gaol
クリンク監獄 Clink prison
フリート監獄 Fleet prison
ニューゲート監獄 Newgate Prison
タイバーンの絞首台 Tyburn
ロンドン塔Tower of London


マーシャルシー監獄 Marshalsea prison
地図

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Wikipedia マーシャルシー監獄
*現在獄舎はない。現在のマーメイドコートのあたりにあった大規模監獄。
*経済犯、債務停滞者が中心
収容された人物:
ワット・タイラー(?〜?)ワット・タイラーの乱で投獄(1381年)
トーマス・マロリイ(?〜1471)「アーサー王の死」の作者」
ベン・ジョンソン(1573〜1637)作家。チャップマン、マーストンとの共著でのスコットランド人風刺によって投獄。耳と鼻をそがれる刑を宣告されたが、侍従サフォークの取りなしで救われた。
ジョン・ダン(1572〜1631)詩人。
クリストファー・ブルック(?〜?)ジョン・ダンの知人の詩人。ダンが親に内緒で結婚したのを見て見ぬふりしたとして投獄。
チャールズ・ディケンズの父親(?〜?)幼少のディケンズは靴墨工場で働きながら週一回父親と面会していた。

キングスベンチ監獄 King's Bench Prison
地図

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*スコーヴルロードに沿って存在。
*1842にQueen's Prisonと改名され、のちSouthwark Convict Prisonとなるが現在何と呼ばれているのかよくわからない(調べてない)
*債務停滞者中心
収容された人物:
トバイアス・モレット(1721〜1771)「サーランスロットグリーヴス」の作者
クリストファー・スマート(1722〜1771)作家。

ホースマンガー・レイン刑務所 Horsemonger Lane Gaol

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Wikipedia ホースマンガー・レイン刑務所
*債務停滞者、犯罪者、凶悪犯など
収容された人物:リー・ハント(1784〜1859)詩人、随筆家、急進的新聞「イグザミナー」の編集者。
*ハントは「ときの摂政殿下」(コメント:えーと、だれだ?わからないのでそのまま引用)をこきおろして罰金と2年の実刑判決。イグザミナーの編集は獄中でも続けた。
*ハントに合うために、チャールズ・ラム、トーマス・ムーア、バイロンなど文壇の有名人がひっきりなしに面会に来る。
*獄中でバイロンとともに評論誌「ザ・リベラル」創刊。
処刑された人物:殺人犯フレデリック・マニング夫妻(死体を床に埋めるなど)
*チャールズ・ディケンズがマニング夫妻の処刑にて、”庶民が死刑をご楽として楽しんでいる、見世物になっている”という趣旨の記事を「ザ・タイムズ」に投稿

クリンク監獄 Clink prison

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Wikipedia クリンク監獄
*売春認可地区ウィンチェスターハウスとその周辺が起源であると、書籍には書いてある。Wikipediaでは音?が起源のようなことを書いてある。
*英語で「ブタ箱入り」=「in the Clink」というらしい。
収容された人物:
べン・ジョンソン、ジョージ・チャップマン、ジョン・マーストン、トーマス・デッカー、リー・ハント、クリストファー・スマートなど
コメント:常連さんがいますね

フリート監獄 Fleet prison

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テムズ川を超えてホーボンに行くとしか書かれてないので詳細な位置不明。
Wikipedia フリート監獄
収容された人物:
サリー伯(?〜?)ソネット形式の発明、ブランクヴァース(無韻律)の発明
ヘンリー・ハワード(?〜?)謀反剤
トーマスナッシュ(?〜?)「犬の島」作者
ジョン・クレランド(?〜?)債務不払い
*1774年、ジョン・ハワードの視察。
*不潔、風紀の乱れ。男女は同じ牢獄に入れられて男囚とセックス。妊娠している間は刑の執行を免れ、恩赦で釈放される可能性があった。デフォー「モル・フランダース」詳しく描写。
*一般人はフリート監獄を結婚式場として利用。入獄中の牧師・獄内礼拝堂によって安く結婚できた。
*のちに入獄牧師は、様々な場所に出かけて行って結婚を担当した。「フリート結婚」は階層を問わず人気であった。

ニューゲート監獄 Newgate Prison

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Wikipedia(英) ニューゲート監獄
Wikipedia(日) ニューゲート監獄

タイバーンの絞首台

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Wikipedia(英) タイバーン川 Tyburn
Wikipedia(日) タイバーン川
*タイバーンの小川は、現在地下を流れている。
絞首台について
Wikipedia 絞首台
収容された人物:
(凶悪犯)ジョナサン・ワイルドジャック・シェパード
(文人)デフォー、リチャード・サヴェジ
*英語版ウィキペディアが詳しい。書籍から有名なところだけ抜粋。
*タイバーン刑場は18世紀まで使用された。以降はニューゲート監獄か、ホースマンガー刑務所にて行われた。

ロンドン塔 Tower of London
Wikipedia(日) ロンドン塔
*国事犯の収容。
*場所も、世界遺産だから省略する。

・監獄のようす
*不潔、飢餓、看守による暴力、残虐行為
*16世紀の監獄は地獄の沙汰も金次第の状況で、カネさえあれば自由にできた。
*食事の自由
*看守つきで外出する自由。看守へ4ペンスを支払うと、夜中に外出する自由

・監獄への寄付
食料雑貨商リチャード・ヘイルなど多くの金持ちが囚人に遺産を残した。

※生没不明は、不明ではなく調べてない人です。

参考サイト:
キングスベンチ監獄、フリート監獄の入り口あたりが描かれている絵画が掲載されています。
http://spitalfieldslife.com/2012/02/11/the-microcosm-of-london-ii/
マーシャルシー監獄の現在の周辺画像が乗っています。
http://mini-post-uk.blogspot.com/2011/09/blog-post_20.html
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ウーズ川


より大きな地図で River Ouse周辺 を表示

川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年

説教師ジョン・バニヤン(1626〜88)

投獄されて天路歴程を著した。
「ベッドフォード」の獄舎に投獄されたらしく…
その獄舎が「ウーズ川」の橋の上にあったらしく…
場所を調べてみたがロンドンと全然離れていた。

ベッドフォードは19世紀に鉄鋼業で栄えたシェフィールドに近い。シェフィールドはマンチェスターと近い。

猟奇事件で調べたセックス殺人犯サトクリフが住んでいたブラッドフォードはシェフィールドの少し北方。

コメント:イギリスに旅行しようと思ったこともないので、何がどこにあるか全くわからない。。。

ビール街とジン横丁

この書籍からまとめ
川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年

・ビールの誕生
紀元前4200年 バビロン
紀元前3000年 エジプトで既に国民的に飲まれていた。
8世紀 ビールの長期保存法確立
*南ドイツバイエルンの修道院にて、ビールにホップを混ぜたことで長期保存が可能になり現在の形になりヨーロッパじゅうに広まる。
*キリスト教会では薬草の栽培が盛んであった。薬で病気を直し、「奇跡が起こった」と主張すると容易に出世できた。が、なぜビールまで作っていたのかは不明。

15世紀 イギリスにビールが初めて伝わる。
*意外と遅いのは、15世紀までイギリス家庭で「エール」を作っていたため。
*エールとは保存料のホップの入らないビールで、腐敗防止のためアルコール分が強く香料や蜂蜜で味付けされていた。
*エールの作り方。麦芽を煮る。冷えたら酵母を投入。あとは常温で保存。不純物が多くドロッとした見た目。
*オランダ、ベルギーからホップ入りビールが伝えられ、エールは殆ど作られなくなった。
*とはいってもイギリス人はエールの見た目が好きだったので、ラガービールに移行せずビタービールが飲まれた。(アイルランド人もビター派)
ビタービールの特徴:ホップは強い、炭酸ガスが少ない、黒く濁っている、ざらついている、ぬるい。つまみを食べずにちびちび飲む。

・ビール規制
16世紀 ジェームズ一世(1566〜1625)がビール税を引き上げ
*庶民が気軽に飲むには高い酒になってしまった。
16世紀 ウィリアム三世(1650〜1702)酒造法改訂
*誰でも自由に蒸留酒を酒造出来るようになった。国民へのゴキゲンとり法とも言われるが、地主が自分たちの領土の販路拡大のため圧力をかけたとも言われる。
*ともあれ庶民は喜んで、ジンの酒造にいそしんだ。

・ジン
原料はトウモロコシ、麦。杜松(ねず)の実で香りづけした蒸留酒。アルコール度数は50度。
*当時の貧乏人御用達。産業革命、第二次囲い込み運動にて土地を追われた農民が下級労働者となってスラムに吹き溜まり1日18時間労働を行なっていたため、手軽に酔えるジンが爆発的にヒット。
*ロンドンのある地区では8件に1件がカウンターで酒を売る店。救貧院、監獄、工場、売春宿、理髪店でも堂々と売買。
*街頭で売り子が販売。地下室、屋根裏部屋などでも密売された。
*ジンの売上は年間800万ガロンで、一週間にひとりあたり大ジョッキ2杯(!)飲んでいたことになる。

・ホガースの銅版画、ビール街とジン横丁
ビール街:上流階級が集まる、きれいなロンドン
*背景の教会の尖塔の形から「マーティンズ・イン・ザ・フィールズ」の近くである。

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*祝旗=ジョージ二世の誕生日(10月30日)ではないかといわれている。魚売りの女性が楽しそうにビールを飲んでいる。手にしている紙?はバラッド(譚詩)。鍛冶屋、肉屋がビールを飲んでいる。鍛冶屋が捕まえているのはフランス人(ホガースはフランス人嫌い)。古本屋。売っているのはぞっき本(在庫がだぶついている本)だが、ホガースが嫌いな著者ばかり書かれている。ジョージ・ターンブルの絵画論など。右のボロイ家屋は質屋で、上流の街なので質屋通いをする者がいなくつぶれそう。質屋の中の人もビールを注文して扉から受け取っている。
ジン横丁:貧乏人の集まる、ヤバイロンドン
*モデルはウェストミンスターのセント・ジャイルズ教区のルカリー(貧民窟)である。

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*酔っ払って子供を階段から落とす女。担架にのった死にそうな人にジンを飲ませる男たち。フイゴを頭に載せた男が子供を串刺しにしている。埋葬されようとしているのはアル中の女。アル中のすえ右上で首つり自殺しているのは、床屋の主人。質屋の看板は上向きである。(画面左)ジンのみたさに鍋ややかんなど台所用品を質草に入れる主婦。画面左下は「ジンロイヤル亭」酒場。書かれている文句は「1ペニーでよっぱらい、2ペンスで泥酔し、ただのみすれば綺麗な藁布団(=監獄)」と書かれているらしい。画面右に、赤ん坊にジンを飲ませる母親(!)

セント・ジャイルス教区1814年ビール洪水事件

・ジンへの対策
*当時酒場の地下室には泥酔した人をころがしておく部屋があったらしい。面倒を見てもらえぬ子供や泥酔者など死ぬ人多数。
*ジンほしさに非人道的な行動が増える。救貧院から釣れだした自分の子供を、絞め殺して死体をベスナルグリーン(地名:BethnalGreen)の溝に遺棄し、身ぐるみを剥いで1シリング4ペンスと引き換えた母親など。
1751年 酒造法の改訂。蒸留酒に高額税をかける
*小売に歯止めがかかり一時鎮圧化。
1780年 反カトリック運動「ゴードン暴動」
*礼拝堂打ち壊しのどさくさでなぜかジン製造所が略奪される。
*ラングディル氏のジン醸造場の事件では打ち壊しでジンが路上に溢れ出た。
すると貧乏人たちが集まってすすりだし倒れたり失神したり。失神した人を狙って暴力スリ集団が略奪を行い、まさに阿鼻叫喚地獄。急性アルコール中毒に拠る死者20人。その他志望者多数。
19世紀 政府、ビール奨励(ジンよりアルコール度数が低いため)
1830年 ビール酒場法(ビアハウスアクト)制定
*ところが統計では、ビールの販売量は増えたがジンの販売量に変化がなかった。(!)結局人々はビールもジンも飲んでいたのだ。。。
19世紀以降 「嫌酒運動(テンペランス)」、「絶対禁酒運動(テイートウトラー)」加熱
*青リボンをつけた団体が禁酒運動を展開。他の禁酒派は酒類の流通自体を制限しようとしたため、酒造業界が反発。アメリカのように禁酒法が施行まで至らなかった。
19世紀後半 節度ある飲酒習慣に移行
*コーヒー、紅茶の台頭、飲酒以外の娯楽の発達。
*現在、イギリスのパブは謙虚に営業している。


コメント:酒を飲むと内臓からオエーとなるタイプなので、「酒に溺れる」という状況がよく分かった。

イギリス猟奇事件

桐生操「イギリス 怖くて不思議なお話」朝日メディア1993年

怪奇、猟奇物語だけ概要を要約する。

・魔女イゾベル・ゴーディ
スコットランド、モレイシャー州出身。農夫の妻。
1662年4月13日に自分が魔女だと自白した。
拷問を受けることなく、魔女としての経歴をペラペラと喋ったのち、エルジンのウェストポートで絞首刑になった。
コメント:魔女は嫌疑をかけられただけでもれなく絞首刑。なぜ自白したのか…考え始めると好奇心くすぐられる。

・フレデリック・ブライ・ボンドとグラストンベリー文書
1907年、グラストンベリー大修道院から依頼され発掘に着手した考古学者。
グラストンベリー大修道院は5世紀に創設され、ブリテンの最も聖なる地と呼ばれた。イエスキリストが訪問した場所とされる。1086年まではアーサー王など歴代の王の墓所だった。16世紀、ヘンリー8世の命令によって修道院は破壊を受けた。数世紀にわたって書物は散逸し、建物の材料は持ち去られてしまった。
ボンドは何から手をつけていいかわからなかったので、友人ジョン・アレイン。バートレットに相談した。
バートレットが提案したのは、なんと自動書記(こっくりさん)であった。
二人は見事「修道士ウィリアム」を筆頭とする心霊を呼び出して、主にラテン語と古い英語で会話しながら建物の寸法を聴きだしていった。あまりに正確な寸法で記述されるため、ボンドは驚いた。
10年にわたりあの世からのメッセージを受け続け、ボンドはエドガー礼拝堂とロレット礼拝堂を発見した。(第一次世界大戦で中断したが、1919年に発掘再開した。)
ボンドは修道士達に敬意を表し、再びグラストンベリーが信仰の中心として栄えるように著書であの世のメッセージのことを暴露した。これに激怒したのは英国教会だった。心霊主義を認めていなかった英国教会は、ボンドが心霊主義に傾倒していると判断し彼をクビにした。のち、ボンドはアメリカにわたって公演して回った。ボンドが去るとグラストンベリーは急速に宗教の地として再び復興した。
コメント:こっくりさんを真顔で提案した友人の気持ちがわからないが。。。

・コッティングリー村の妖精
1965年「デイリー・エクスプレス」記者チェインバーズの取材

・ジョン・バークとウィリアム・ヘア
死体売買人。最初は墓を暴いていたが、新鮮な死体のほうが売れるので徐々に殺人に移行していった。顧客の解剖医は、コロシに感づいていた感があるが、何も言わなかった。警察の調べが入り、ヘアは協力したため罪を免れた。バークだけが1829年1月29日に死刑になった。この死刑囚は服役中に、自分を見に来る野次馬から物見料6ペンスをせしめた。彼らから死体を買っていた顧客の解剖医もまた罪を免れたが、世間から白い目で見られて大学を去った。

・ウィリアム・パーマー
1856年2月逮捕。毒殺魔。

・ハリー・ホワイトクリフ
新進気鋭の作家だが裏の顔は週一回の殺人鬼。

・ジョン・ヘイ 嗜血症の連続殺人鬼
幼い頃自分の血を舐めて嗜血症となった。家畜を殺して血を飲んでいたが、人を殺すように鳴った。血を飲むことで快楽を得ており、知人筋で殺人を繰り返した。
1949年に老女オリビア・デュラン・ディーコンを殺害。
ヘイは知り合いを殺しまくっていたが死体は酸で溶かしていたので、「罪体」が発見されず罪に問われないと思射込んでいた。警察にペラペラ自白。警察が入念に調べたところ胆石、溶けていない左足、義歯、人骨、ハンドバックの留め金など証拠品が多数出たため御用となった。
*デイリー・ミラー紙が「現代の吸血鬼」とかき立てたところ法廷侮辱罪となってしまい罰金1万ポンドを支払った。
コメント:法廷侮辱罪ね…なるほど。
第二段階におけるレイのモデルとしている。ところでヘイは人を殺害して血を飲んでいたが、飲血の際のオーガズムはどこまで得ていたのだろう。老若男女を問わずターゲットにし、セックス殺人に発展していないようなので、どーも血を飲むだけで達して満足していたように思う。いずれにせよサイコキラーの気持ちは全然分からない…。

・ヨークシャーのサトクリフ
1975年の切り裂きジャック
17件、次々と売春婦を殺害して尻や胸、陰部などを切り裂いている。
リーズかブラッドフォードの住民の犯行とみた警察は警察は犯行現場の地図にピンを立て、糸を貼って、移動距離が最小になる地を計算した。警察の思惑通り、サトクリフはブラッドフォードのヒートン地区に住んでいた。
しかし、警察が再調査を行なっているうち、18〜21人の犠牲者は起きてしまう。
サトクリフが売春婦を買ってカーセックスに挑もうとした時、勃たなくなって時間が手間取った。見回り中の巡査が、サトクリフの車の不信な点を見つけて声をかけた。事情聴取の最中、サトクリフは車から離れた所で用を足した。このとき凶器を隠した。サトクリフは警察署に連れていかれた。ナンバーを照合したところ合わなかった。サトクリフのポケットから物干しロープが出てきた。警察は一連の女性殺人の犯人だと踏んだ。現場の足のサイズが一致したが状況証拠が揃わず、サトクリフを逮捕できずに勾留した。警官の閃きでサトクリフが用を足したガソリンタンクの裏を調べたところ、ハンマーとナイフが発見されて御用となった。
サトクリフのこころに殺人癖の芽芽生えたのは28歳のとき。チェコ人女性と結婚したが逃げられ、むしゃくしゃして売春婦を買ったところ勃たなかった。売春婦は彼をバカにして、つり銭を返さなかった。後日偶然再開したが、この売春婦はこの時も釣りを返さなかった。サトクリフはこのときの屈辱感を忘れず、1969年に全くべつの売春婦を殺害した。以後、かれは強迫観念に襲われるように売春婦を殺し続けた。
サトクリフは売春婦を殺害してオーガズムに達したことは一度もなく、殺した相手が売春婦でなかったときは激しく後悔したという。彼には精神薄弱な面があったが精神病ではなかったため、終身刑となった。