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19世紀イギリスについて、創作活動するために調べたこと。

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レッセフェール(自由放任主義)

長島伸一「大英帝国 最盛期イギリスの社会」講談社現代新書 1994年
よりまとめ

1830年代、世はまさに産業革命のまっただ中。
イギリスの政府の政府としての姿勢は「夜警国家」・「安価な政府」であった。
その思想の元となる概念は”レッセフェール”。経済で用いられる場合は「政府が企業や個人の経済活動に干渉せず市場のはたらきに任せること」の意で(Wikipediaより抜粋)、平たくいうと「儲けようと野垂れ氏のうと勝手にすればぁ?政府は関与しない」。
(反対:「福祉国家」「警察国家」

資本家が利益追求し、労働者を搾取したり、不衛生なアパートですし詰め状態になってコレラが大流行した。労働力として年派のゆかぬ子供(9歳未満)を働かせていた。
当時のイギリスでは、健康状態に問題がなく職がない状態のものが無職状態にあるのは、社会のせいではなく個人の怠惰のせいとして考えられていた。エリザベス救貧法の施行で、産業界からは不満の声が上がっていた。

1601年 エリザベス救貧法(旧救貧法)
特徴:労働力のない貧民を救済する。労働力がある者には労働を強制し、税を取った。労働力があるのに労働に従事しない者は厳罰を課した。これらは教会の教区ごとに実施された。17〜18世紀にかけ、税が重くなるに連れて労働力のある層から不満が出てきた。特に産業界から不満の声が上げられた。

1832年 第一次選挙法改正(新救貧法)
*レッセフェール思想を反映した貧民救済法
特徴:労働力のない貧民を救済するが、条件が厳しくなった。具体的には、失業した者は家族と共にワークハウスへ入所しなければ院外救済を受けられなくなった。ワークハウスでの救済措置は、一般的な低賃金労働者の生活水準より低くなければ納得されなかった。ワークハウスがあまりに酷かった。エンゲルスは「貧民法下のバスティーユ牢獄」と比喩した。「入所してもしなくても自由」というレッセフェール思想のもと、失業者も入所を敬遠したため、救貧費が減少した。
コメント:社会保障があまりにひどかったので、あえて一家で野垂れ死にを選ぶ家族もいたということか。。。

1833年 連合王国の向上の児童及び年少者の労働を規制する法律の制定
*9歳以下の雇用禁止
*10歳〜12歳は9時間以下の労働時間
*13歳〜18歳は12時間以下の労働時間
*イングランドでは1837年まで出生届の登録が義務付けられていなかったので、親や工場主が年齢を偽って少年を雇用することが法の網目をくぐって行われていた。工場法(1844年)により少年労働者の労働時間が6時間半に制限され、ようやく児童労働保護が広まった。労働時間の制限は成人の労働者にも19世紀半ば以降適用された。

1834年 救貧委員会が中央当局に置かれ、救貧事業が全国統一化された。

1942年 衛生報告書
*E・チャドウィッグ起草、N・Wシーニア改訂
*背景:工場排水、煤煙、公害、無計画な都市化
*人件費がかかりすぎた計画。安価な政府に対抗できなかった。

1850年 コレラ蔓延
*政府が重い腰を上げて対応

1858年 大臭気(汚染されたテムズ河の悪臭)

1865年 下水道の完備
*総延長132キロ、レンガ造り
*上水道の普及率は1881年時点でも53パーセント足らずであったため、労働者家庭では共同水道を利用していた。
1866年 「飢餓の40年代」をクライマックスとし、イングランドにおける伝染病がほぼ終息。

1880年 雇用主責任法制定

1897年 労働者保証法制定

1906年 総選挙、自由党が圧勝
*ただし、29名の議員からなる労働党が成立し、自由党も労働者の要求を飲まざるを得なくなった。

1908年 老齢年金法制定

1909年 国民保険法制定
*児童保護法から堰を切ったように社会保障が成立した。

イギリス新聞史(4)19世紀

イギリス新聞史(3)18世紀

19世紀の新聞の規格
朝刊サイズ:縦42.5インチ×横18.75インチ 全紙、2ツ折。
ページ構成:全4ページ。
第1ページと第4ページが広告となっているのが通常。
第2ページ、第3ページが4段になっており、見出しは最小限につけられた。
内容:議会審議の概要、外国ニュース(外信)、情報、司法界、実業界、有名人ゴシップ・社会に生起する諸問題などの雑録、警句、新しい劇などの批評、投書、主要な読み物など。
特筆:三回紙、日曜紙などが誕生する。

コメント:「一面を飾る」とかいう言葉はなかったんだろうな。
記事の種類は多岐にわたっている。

1775年 アメリカ独立戦争開始

1783年 アメリカ独立承認(アメリカ独立戦争終了)
*当時の内閣はトーリー内閣。ウィリアム・ピットWilliam Pittが1783年に24歳で内閣を組織。
コメント:若いな。。。
*バーミンガム、シェフィールドなど工業の成長
コメント:シェフィールドは鉄鋼業が盛んだったが、今は町ごとかなり廃れているらしい。
*イングランドの人口は18生起初頭には500万人程度だったが、19世紀半ば(1840年)には1400万人に達した。
コメント:思ったより人口少ないな

1785年 ジョン・ウォルターJohn Walterがザ・タイムズ紙の前身「ザ・デイリー・ユニバーサル・レジスターThe Daily Universal Register」創刊。
*1月1日。ロンドンのブラックフライヤーズプリンティングハウスクエアの印刷工場を本拠地として。
ウォルター1〜3世についての論文をWebで拾った。

1788年(アメリカ)合衆国憲法が発足

1789年(アメリカ)ワシントン大統領就任

1789年〜99年(フランス)フランス革命

1803年〜15年(フランス)ナポレオン戦争
*その他、同時期アイルランド内紛など。

1812年 ジョン・ウォルター(一世)死去(11月16日)

1814年(ドイツ)蒸気動力に拠る印刷機を発明。
*印刷刷工、ケーニヒKoenigとバウアーBauerによる。

1814年 ザ・タイムズ紙が創刊。
*ウォルター二世が、ザ・タイムズ紙に1時間に1000部を刷れる蒸気動力を導入。
コメント:現在の最新輪転は1時間に2万部ぐらい刷れる。(確か…確認必要)
*11月28日に印刷機導入。翌、29日の紙面で、「タイムズ」は毎時1000枚を刷ると発表した。

1816年 ロンドン総人口100万人達成。
*ロンドン人口のうち文字が分からない児童は20万人。
*イングランド全体の2〜15歳の児童350万人のうち、1839年に文字が読めなかったのは150万人。

1840年 識字率の高まり。
*産業人口のほとんどが文字を読むに事欠かぬほど教育が振興した。
*当時の労働者階級はビヤホールや酒場で新聞雑誌を読みあさっていた。
*ウィリアム・コベットWilliamCobbettが週刊紙「ポリティカル・レジスターPoliticalRegister」を創刊。コベットは農家出身で軍務に付いたり、図書販売人も行なっていた。彼の新聞は農家や工場労働者などを擁護した内容。そのため印刷税を払わずパンフとして刊行したが、結局弾圧の対象となってしまった。
社会的には(印刷税の撤廃に関し)大きな影響を与えた。

1841年 ウォルター二世死去(5月7日、56歳)
*事業はウォルター三世が引き継ぎ。

1844年 電気通信機の発明によりニュース速報の技術が躍進。

1848年 輪転印刷機が「ザ・タイムズ」に導入される。
*輪転は初めて両面刷を可能にした。当時の輪転は毎日1万部の印刷が可能。
*リンカーン大統領のコメント:ザ・タイムズは世界において最も強力な存在である」

1851年 イングランド国内の新聞総数 563紙。

1855年 印刷紙税撤廃
*今まで対抗者なく横暴だったタイムズ。印刷税撤廃を機に、徐々に人々がタイムズ離れを起す。

1855年 大衆紙「デイリー・テレグラフ」誕生。
*定価は1ペニー

1858年 「ザ・タイムズ」が創設当初のロイター通信社の通信を採用

1861年 「ザ・タイムズ」は従来の12ページ建ての構成を24ページ建てに変更。

1863年 プリンス・オブ・ウェールズの結婚
*これによりタイムズは11万2000部を売上げた。平均発行部数7万部を記録した。

1867年 イングランド国内の新聞総数 2304紙に達する。
*淘汰されるが、日刊紙は逆に部数を伸ばす。

1870年 タイムズ、少し落ち目になるも不動の地位を確保

1888年 「アンサーズAnswers」がノースクリフ卿によって創刊される。
*アルフレッド・ハームワースによる漫画雑誌の整備

1896年 本格大衆紙「デイリー・メイル」がハームワースによって創刊。
*ハームワースは聡明な若手記者を集めた。

1903年 女性向けの「デイリー・ミラー」紙がハームワースによって創刊。
*24ページに広告がたっぷりはいっており、上流階級のゴシップを中心とした記事構成。


参考サイト:明治の新聞(12)~番外編:イギリスの新聞

コメント:メモはここまで。20世紀は余裕があったら調べます。

イギリス新聞史(3)18世紀

イギリス新聞史(2)14〜17世紀

1711年 ロンドンの週刊誌発行部数が4万4千部に達する。
*「うそ、大げさ、紛らわしい」ものも多数。

1712年 政府が*印紙紙税*を開始。
*「うそ、大げさ、紛らわしい」に対応するためという言い分?
*2つ折片面刷り紙は半ペニー、両面刷紙は1ペニーの印紙を、紙面の下方に貼らせた。
新聞業界は打撃を受けるが、商業の発達により市民の購読熱は加速。印紙税自体は1855年まで継続したが、徐々に引き下げられた。

1714年 ジョージ一世(ハノーバー家)が即位。

1727年 ジョージ二世が即位。

1733年 エドワード・ケイブEdwordCaveが「ジェントルマンズマガジン」を刊行開始。
*年2回の刊行。今日的な意味での、世界初の雑誌。

1753年 手押し印刷機が普及。

1753年 全体の発行部数750万部達成

1760年 ジョージ三世即位。
*ジョージ三世、23歳。
*ジャーナリズムの躍進。議会報度が禁じられていたが、ウッドフォール家が議会報道の禁と戦う。

1760年 全体の発行部数950万部達成

1767年 全体の発行部数1100万部達成

1772年 議会報道の禁が撤廃

1772年 モーニング・ポスト紙Moning Postがヘンリー・ビュートによって創刊される。
*モーニング・ポスト紙は有名詩人を囲い雇って人気を博した。
ワーズワース
サウゼイ(サウジー)
コールリッジ
チャールズ・ラム…ジョーク作家で毎朝ジョーク話を書き、1編6ペンス程度で売っていた。(高くはないらしい)
*モーニング・ポスト紙は1781年、オダニエルが経営者になったことで社会的ニュースを取り上げるよう方針変更。読者を楽しませる姿勢。のちにデイリー・テレグラフと合併。
コメント:サウジーの肖像のファッションのリボン(スカーフ?)が素敵だ。

1776年 新聞、ロンドンだけでも53紙の日刊・週刊誌が発行される

1786年 モーニング・クロニクル紙がウィリアム・ウッドフォールによって創刊。
*ジェームズ・ペリーが記者として雇用される。ペリーは壮年から記者として才能を発揮。
*モーニング・クロニクル紙の編集主宰にスコットランド人のジョン・ブラックJohn Blackが選ばれる(1817年)。ブラックは寄稿家を集めてクロニクル紙を盛り上げた。
ジョン・スチュアート・ミル
チャールズ・ディケンズ
*ウッドフォールは1793年に所有していたパブリックアドバタイザ紙を他社に譲る。1805年に死去。


次回(19世紀)へ続く。