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19世紀イギリスについて、創作活動するために調べたこと。

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ジキル博士とハイド氏

ジキル&ハイド [DVD]

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ジキル&ハイド
マルコヴィッチが主演のジキル&ハイド

ざくっとあらすじ:
女中のメアリー(ジュリアロバーツ)はジキル博士(マルコヴィッチ)に好意を抱いていた。ジキルはほどなく、実験の助手ハイド氏を館に連れてきた。
ハイド氏は無作法にメアリーに対して愛欲を表現したり、「メアリーは父から性的虐待を受けていたのでは?」と指摘する。
メアリーはジキル博士から研究に関するお使いを頼まれ娼館へでかけるが、血まみれの研究を見てしまう。
お使いや研究を経て、使用人たちのさまざまな不安と憶測が飛び交うなか、メアリーはある日ジキル博士の学友を撲殺し逃亡する途中のハイド氏に会ってしまう。ハイド氏は「これで会うのは最後」と宣言して逃走する。
ジキル博士は、今まで有効だった薬が効かなくなったと日に日に弱っていく。
ところがメアリーと逃走したはずのハイドは再び館内で出会った。そして彼の人格がハイドからジキルへと遷移し、破綻してしまうのを見届けた。彼女は館を去った。


コメント:原作には忠実でない模様
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切り裂きジャック

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フロム・ヘル
(結末まで書いてしまっているのでこれからDVDとか見る予定の人は読まないで下さい。)


ざっくりあらすじ:
1888年、娼婦で赤毛のメアリーケリーの仲間たちはニコル組というやくざからショバ代4ポンドを払うよう脅されていた。
メアリーケリーの元娼婦仲間のアン・クルックは、結婚して潤った生活を送っていた。アンの夫は外国で絵を売っていて、戻ってくるという。アンは夫に仲間のショバ代を出してもらおうと、意気揚々とメアリーケリーに赤子アリスをあずけて出かけていった。しかし夫とセックスしているところに、なぞの組織が乱入し、別々に連行されてしまう。連行の様子を建物の外で目撃したメアリーケリーたちは、心配していた。けっきょくアンは精神病院に放り込まれ、「凶暴性を排除するため前頭葉を3箇所傷つける手術」をほどこされてしまう。
そんななか、ホワイトチャペル地区で娼婦が殺害された。殺害した後女性器を切除する残忍な犯行だった。地区のアバーライン警部(ジョニーデップ)は、妻子を失ったショックでアヘンを吸うようになり、キメると被害者の映像が見られるという直感を持っていた。そして、この事件を皮切りに連続して娼婦が殺害されることを予期していた。
警部がラリって見た映像通り、こんどはメアリーケリーの娼婦仲間4人が次々と標的になり殺害されていった。捜査でメアリーケリーに近づいた警部は彼女に惚れてしまう。
捜査のなかで、警部はヴィクトリア女王の王子エドワードがカソリックの教会で秘密裏に結婚したことを知った。相手はなんと、娼婦のアン・クルックであった。アンの夫はエドワード王子だったのだ。しかも、王子が梅毒でまもなく死ぬことを知った。
これらの情報から警部は、一連の犯人は王子の健康を一手に引き受けていたウィリアム卿であると考えて追い詰めた。ウィリアム卿は娼婦が自らの信頼を貶めたとして、憎んで犯行に及んだのだ。じっさい警部の推理は正しかった。
しかし警部は、ウィリアム卿の次の犯罪を止められなかった。
メアリーケリーは家屋の中で、最高の医学の知識を用いてバラバラにされていた。現場検証に訪れたアバーライン警部は絶望に打ちひしがれたが、髪の色が赤毛ではなく亜麻色だったので死体がメアリーケリー本人ではないとさとった。
ウィリアム卿はフリーメイソンの所属であったので、メンバーたちから制裁を受けた。例の前頭葉の除去手術を受けさせられ、廃人となって精神病院に贈られた。
警部あてメアリーケリーから手紙があり「海辺の家で暮らす」と書かれていた。部下の刑事は会いに行くようにすすめるが、警部は動かなかった。
警部は阿片窟でメアリーケリーがアン・クルックの娘アリスとしずかに暮らしている夢を見ていた。部下の刑事が居場所をつきとめて阿片窟を訪れると、警部はすでに息を引き取っていた。刑事は、かつて警部が娼婦の遺体にそうしたように警部の目を閉じさせ、シリング銀貨を両まぶたに乗せてやった。

コメント:実際の切り裂きジャック事件は、迷宮入り

ヘンリー8世の宗教改革

川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年
この書籍より。
もーいいかげん次の本に移りたい。。。


1536年、ローマカソリックから分離し、イングランド国教会が発足。
働いて?いた修道士たちはどうなったのか。

答えは、柔軟に時代の流れに順応した。

反抗さえしなければそのまま国教会(一応プロテスタント)の牧師になった。
聖職禄を受けたり、カソリックに叙階されるものもいた。

また、年金を貰って市井の人になった修道士は5000人。修道女2000人。托鉢僧は1600人だった。

ジョージ6世

英国王のスピーチ コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]

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英国王のスピーチ
ざくっとあらすじ:
王太子ジョージ6世(現女王エリザベス2世の父)は幼少のトラウマから吃音があった。様々なセラピストの治療を受けていたが改善しなかったジョージ6世は、ある日妻のエリザベスが新聞広告からチョイスしたオーストラリア出身のライオネル医師の元をたずねた。ライオネルの治療はユニークだった。医師は「診察では二人は平等」といい、王に親しく話しかけて治療をスタートさせた。ジョージ6世の心はかたくなで一度は治療を投げ出したが、ライオネルのもとで録音した朗読が思いの外すらすらと読めたことに心を動かされて治療を続けることにした。演劇のように肺活量を鍛えたり、リズムに乗ったり、時には心の中の汚い言葉を吐き出したりしてライオネルの治療は進んでいった。
しばらくしてジョージ5世が亡くなり、兄のエドワード8世が即位した。しかし兄は2度の離婚歴のあるアメリカ人女性(しかもドイツと関係がある女性)と結婚したいがために王位を弟に譲ってしまった。これは兄が王になると思い込んで何の準備もしていなかった弟にとって最も恐るべき事態だった。1936年12月12日、ジョージ6世は望まぬ即位をした。
ジョージ6世には自身がなかったが、ライオネルの猛特訓を続け、ドイツへの宣戦布告のスピーチも見事にこなした。その後のスピーチは全てライオネルが立ち会った。太平洋戦争を経て、ジョージ6世は侵略運動から英国を守るシンボル的な存在になった。やがて王は医師に勲章を与え、彼らは一生の友であった。

ジョージ6世

フィールディング兄弟と警察制度

川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年
この書籍より詳しくまとめ。

警察の発足

ヘンリー・フィールディング
劇作家としてウォルポール政権に対する風刺劇を上演。
政府「検閲令」によって取り締まられ、法律家への道を歩みだす。

1748年にウェストミンスター区主席治安判事となる。
治安判事としての給料は年500ポンド(週9.6ポンド)であった。
フィールディングは5この500ポンドを汚れたカネといい、300ポンドまで引き下げたが差額は結局彼の書記のものになってしまった。
彼は「大怪盗ジョナサン・ワイルド伝」を著した。ジョナサン・ワイルドが処刑されたのは1725年で、フィールディングは18歳だったため実際のジョナサン・ワイルドの生活を知っていたわけではなかった。ダニエル・デフォーのワイルド伝記によって多くを知ったと思われる。

これをもとにフィールディングはワイルド伝を書き上げたが、ときの首相ウォルポールを風刺したとして劇作家の道をたたれ、皮肉にもワイルドが創り上げた犯罪世界と戦わねばならなくなった。しかし、治安判事としてボー街に入ったフィールディングは、フィクションの世界よりもはるかにひどい現状を目の当たりにした。たとえばジョージ2世も追い剥ぎにあったし、ホラス・ウォルポールも「追い剥ぎ紳士」ジェームズ・マクレインの獲物になったなど、犯罪は多発していた。

フィールディングは犯罪対策を始めた。
まずは自分の身の回りから、賄賂を受け取らない、手数料を受け取らないなどを行った。
つぎに、市民に向け、犯罪にあったら犯人に関する情報、人相、時刻、盗まれた品物などをフィールディング事務所に届け出るよう運動した。(被害届け)
つぎに、警吏を確保した。ソーンダーズ・ウェルチを始めとする屈強な教区警吏6名を確保した。(イギリス刑事巡査の始まり)彼らはフィールディングと志を同じくした。
フィールディング氏の一党は犯罪者の恐怖の対象になっていった。
問題は警吏が無給であったことだった。警察制度の導入で税金をつぎ込む発想もなく、レッセフェールに反して個人の自由が失われると思われていた。
もっとも効果的なのは犯罪を未然に防ぐことではなく、犯罪者逮捕への謝礼金だと思われていた。

ジョン・フィールディング
ヘンリーの14歳年下の異母弟。19歳のとき失明したが、兄から学んで治安判事の資格を取り兄と共に働いた。ジョンは警官を有給にするために尽力した。
ヘンリーが立ち上げた逮捕犯は、教区から泥棒がいなくなってしまうと報奨金がでないので一時的に中断されていた。
ジョンは逮捕犯を復活させて、赤いチョッキを着せてより印象を強めた(「赤胸の駒鳥(ロビン・レッドブレスト)」)。一方で彼らに給料が出るよう運動を進めた。
この逮捕版は実績を買われ、ロンドン全域を担当するまでになった。
当時、夜警や個人的なパトロールはいたが、泥棒と示し合わせたりまったく役立たずであることも多かった。
そこジョンは1763年、騎馬警官を発足させた。1805年には常時市内を巡回するようになった。

ヘンリーが作っていた容疑者の登録簿はジョンによって発展して掲示記録保存局となった。陸軍相や各区の治安判事も協力して脱走兵や犯罪者に関する情報を交換するようになった。また、ジョンは若年犯罪の予防のため、海軍協会を設立した。売春婦増加に歯止めを掛けるために少女たちの孤児院や、売春婦を構成させるマグダレン感化院を設立した。
ロバート・ピールによって近代警察が誕生する80年前のことであった。