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19世紀イギリスについて、創作活動するために調べたこと。

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アガサ・クリスティ失踪事件

桐生操「イギリス 怖くて不思議なお話」朝日メディア1993年
よりまとめ。

新聞の名前がたくさん出てきたので少しつぶさに要約してみる。

アガサ・クリスティ(1890年デヴォンシャー州トーキー生まれ)
30歳で作家デビュー。1914年、24歳のときすでにアーチボルド・クリスティ大佐と結婚していた。一人娘をもうけるが、夫婦仲が上手く行かなかった。
1926年12月3日金曜日22時ごろ車に乗って出かけたまま失踪。
・失踪後、イギリス銃の新聞がアガサ・クリスティの失踪を報じた。
・翌朝(土曜の朝)、アガサはロンドンの北北西300キロにあるハロゲート・ハイドロパシフィックホテルにチェックインする。アガサはミセス・ニールと偽名を名乗って泊まっていた。南アフリカのケープタウンからの旅行で、娘が死んだので傷心旅行に来た、と周囲の者に告げていた。あまり不信に思うものがいなかった。
(チェックインから2日後、ナゾのミセスは未亡人なのにドレスを購入しに街まででかけた。その後は服をとっかえひっかえしたり、散歩したり、教会に行ったり。少し不審であった。)
・ある者が新聞に載っている婦人と似ていると気づいて警察に通報する。
・警察は2日間、「ナゾのミセス・ニール」を監視を続けた。
・月曜、警察がナゾの婦人を張り込んでいることがマスコミにばれた。
「デイリー・メイル」が記者とカメラマンを特別仕立ての列車に乗せて送り込んできた。記者の中には、リッチー・コールダーがいた。
・コールダーがミセス・ニールに接触した。「クリスティ夫人」と呼びかけたら落ち着き払って、「私は記憶喪失だ」と言った。
・アガサ失踪から一週間後、「ザ・タイムズ」に新聞広告が掲載された。内容は「南アフリカから帰国したテレサ・ニールをご存じの方は私書箱まで知らせて欲しい」というものだった。さらに後日の警察の調べでは、この広告を出したのは実はアガサ自身だったことがわかった。
・警察がパニックになっているすでにこのとき、アガサはコールダーにだけ、自分がアガサであることを認めていた。
・12月14日の火曜日、クリスティ大佐は警察から連絡を受けてハロゲートに到着。
・後から考えれば本当に記憶喪失の人間がそう言うかは甚だ疑問だったが、当時の周辺関係者は以下のように考えて慎重に事を運んだ。1、クリスティとニールは別人の可能性 2.クリスティがニールであり、さらに本当に記憶喪失である場合、下手を打つとショックで容態が悪くなるかもしれない。
・夫クリスティが夜会で妻に近づいたところ、妻アガサは夫を見て「兄だ」といった。彼女と彼は揃ってそこで夕食を取り、部屋にもどった。集まっていたマスコミは声明と単独会見を狙ってロビーで騒ぎ立てた。結局「ヨークシャー・ポスト」のハロゲート支局員ケニヨンがスポークスマンとして夫妻にインタビューした。
・夫クリスティは「妻は完全に記憶喪失」と述べ、妻を連れてロンドンに戻った。
・「デイリー・メイル」の記者が裏口でアガサの姿をカメラに激写した。高価なコートをまとっていた。
・夫妻はロンドンのアブニイ・ホールに到着した。「デイリー・メイル」が電報を打った。内容は「売名行為ではないか?捜索に税をつぎ込んで納得しない市民がいるので説明してほしい」
・夫は再び「妻は完全に記憶喪失。金曜土曜の記憶は全くない」とコメントした。
・結局アガサがなぜ名前を偽って、ホテルに止まって失踪騒ぎを起こしたのかはナゾのまま終わった。女性ごころを考えると、夫の気持ちを取り戻したかったとも考えられるが、夫婦仲は戻らず、事件の2年後に離婚した。1930年にアガサは再婚した。
・小説の宣伝のためかは定かではないが、結局この事件によってアガサの小説は売れに売れた。
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クリスティン・キーラー

桐生操「イギリス 怖くて不思議なお話」朝日メディア1993年

この本から「クリスティン・キーラー」を要約。
この部分、主語がイングランド側、ロシア側と移り変わりすぎて何度読んでもさっぱり分からなかったのでまとめてみた。

クリスティン・キーラー
概要:プロヒューモ事件(1961〜62)の関係者。ジョン・プロフューモ陸軍相の愛人。

・若いころキャバレーやナイトクラブを遊びまわっていたクリスティンはワードという男と知りあって同棲を始めた。
・ワードは表向きは接骨医だが、上流階級に高級娼婦を仲介する裏の顔を持っていた。クリスティンは美しく、また浮ついた性格だったのでワードに利用された。
具体的には怪しげなクラブに連れていかれてはそこで知り合った新たな男と遊び歩いた。強制されたのではなく彼女の自発的な行動だった。
・クリスティンはこのときプロフューモと知り合って付き合い始めた。
・ワードはその後もいかがわしい社交界を渡り歩き人脈を広げていた。彼はソビエトの海軍大尉ユージン・イワノフと知り合った。
・そのうちM15(イギリス情報局保安部)がワードに接触した。M15は彼の違法行為を咎めない代わりにソビエトの情報を流すように要請した。そこでワードはクリスティンを利用した。イワノフに紹介してスパイに仕立て上げたのだ。何も知らないおろかなクリスティンはイワノフとも付き合い始めた。
・ところがイワノフのほうが上手だった。イワノフはワードがイングランド側のスパイであることを見抜いた。さらにクリスティンがイギリス陸軍相の愛人ということまで調べ上げた。イワノフはワードを揺すり、以下の情報を提供するよう要請した。「アメリカが西ドイツに核を提供するかどうか、プロフューモから聴きだしてくれないか」
・ワードはとにかくスネに傷の多い男だった。セックス写真を取ったり、とにかくイギリス紳士にあるまじきいかがわしさだった。これはプロフューモにも当てはまるが、上流の男性にとって、娼婦を買うことはもちろんエロポラロイドを撮っているようなスキャンダルはご法度だった。というわけで、断れなかったワードはイワノフに言われるままに二重スパイになった。彼はクリスティンをさらに利用して、プロフューモから聴きだした情報をソビエトに横流ししようとした。
・1962年、野党である労働党の議員ウィッグは「プロフューモを監視しろ」とナゾのタレコミ電話を受けた。この電話はおそらくスキャンダルを狙ったソビエトのスパイからと思われる。
・一年半かけて、ウィッグは徹底的にプロフューモの身辺を調査し、上記の関係を調べ上げる。情報を揃えたウィッグは下院議会でプロフューモに機密保護の問題について質問した。プロフューモは完全否定をした。これは与党にとっては寝耳に水の話だった。与党はプロフューモはを問い詰めたが、白状しなかったのでおかしいと感づき、M15の担当者を呼びつけた。M15とソビエトのスパイ合戦は内閣の知らぬ間に繰り広げられており、内閣は初めて大スキャンダルが起きていることに気づいた。
・マスコミが騒ぎ立てた。クリスティンは浅はかだったので、マスコミの多額の謝礼に釣られて、プロフューモから貰ったラブレターを見せてしまう。
・プロフューモは陸軍相を辞した。
・ワードは孤独の中で自殺した。
・クリスティンはマスコミから逃げまわる生活ですっかり老けこみ、結婚離婚、アル中の生活を経て1人の息子を育てた。
・1960年、クリスティンを題材にした映画が公開され、クリスティンは息子と共に上映に現れた。「スパイだなんて思っていなかった。享楽を追求していただけだった。いまは息子だけが生きがい」コメントした。

…事件をもとに作られた映画「スキャンダル」1989年
*クリスティンはロンドン郊外レイズベリーの貧しいスラムで生まれた

ガヴァネス(女家庭教師)

ガヴァネス(女家庭教師)

ヴィクトリア朝時代、中流の婦人(「上流の有閑婦人のように遊んで暮らせるほど裕福でもないし、労働者階級の妻ほど肉体労働に従事できないし…」って感じ)が自立するためのほとんど唯一の手段。
他の手段としては、作家、ジャーナリストなどがあったが成功するのは一握りだった。
ガヴァネスは、生徒が成長すると自動的に失業する。家族ではないので、孤食したり立場は微妙だった。

フィクションのガヴァネス登場率は多い。
サウンド・オブ・ミュージックのマリアなど。

コメント:ヒジョーにキビシー世界だ。元々中流女性だから家に帰ればいいんだろうか。
そういえばジェーン・オースティンなど読んでいない。。。
目的はガヴァネスではないので時間に余裕があれば調べる。