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19世紀イギリスについて、創作活動するために調べたこと。

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トマス・モア

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ざっくりあらすじ:
ヘンリー8世は男児の産めない妻と離婚してアン・ブーリンと再婚したかったがカトリックである王が離婚するためにはローマ法王の許可が必要だった。そこで王は離婚の件で大法官モアを訪問した。モアのカトリック教徒としての心は離婚に反対だった。忠誠と信仰のあいだで板挟みになったモアは沈黙のまま大法官の職を辞した。
ヘンリー8世は国ぐるみでローマカトリックを脱退し、イギリス国教会の主となりアン・ブーリンと再婚していた。
王の秘書官であったクロムウェルはモアを拘留し、離婚について擁護する言及させようとした。しかし元大法官はさらに沈黙を続けた。
留置所?を訪問した家族がモアを説得したが、彼の決意は固かった。裁判にかけられ、恩赦の最後のチャンスが与えられたが、離婚を認めると言わなかった。彼はロンドン塔に移され、1535年に打ち首になった。処刑人に対して「許す」と述べた。
動乱の中、クロムウェルは数年後に処刑、モアを大法官に推薦した友人も処刑となった。国王は梅毒で死んだ。

ーーー
※ヘンリー8世の後釜には先妻の子メアリーが即位する。アン・ブーリンが権力を握っている間、メアリーはヘンリー8世と面会することも出来なかった。
何かの反動のようにメアリーはプロテスタント迫害を始め、ブラッディ・メアリーと恐れられた。

その他:ハンス・ホルバインが描いている大法官のアクセサリーがそのまま再現されている。

Wikipedia トマス・モア
Wikipedia ヘンリー八世
Wikipedia クロムウェル
Wikipedia メアリー一世
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ポンド、シリング、ペニー

Wikipedia シリング
BIGLOBE何でも相談所 約100年前、1シリングは日本円でいくらでしょうか。

後者URLから引用

>1ポンド=20シリング、1シリング=12ペンス
>5ポンド=100シリング=20万円とおけば、1シリング=2000円

*1971年に通貨が10進法に移行されて、シリングは廃止になった。

メモ:
1ポンド=100ペンス

*一週間あたりの給料を比較してみた。

家政婦や料理人…1ポンド(=20シリング=240ペンス)
泥ひばり(マッドラーク)…2シリング(=24ペンス)
くず拾い、モク拾い…3.5シリング(=42ペンス)
溝さらい(トッシャーズ)…2ポンド(=40シリング=480ペンス)
ロンドン日記著者ボスウェル…4.1ポンド(=82シリング=984ペンス)

ブログ内リンク:19世紀イギリスの貧困層

コメント:泥ひばり…ウッウッ(´つω;`)

19世紀イギリスの労働者層

川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年
この書籍より詳しくまとめ。

19世紀イギリスの労働者層 煙突掃除

煙突掃除夫
出動:早朝。人々が起きだして暖炉に火を入れる前に掃除をする必要があった。
工場の煙突の場合、早朝になっても煙突が冷え切っていないことがあった。
熱い煙突に服を着て入ると着火するので、裸で煙突に入ることもあった。とうぜん、肘や膝をやけどしたり、肉が落ちたりした。
煙突掃除親方は少年を、こづかいや脅しなどでたくみにやりこめ、やけどの傷に塩水を塗りこめた。肘やひざの皮を強くする行為を行なっていた(ほぼ拷問)。
早朝から働くため、温かい煙突に入るとうたたねする子供がいた。親方は、子供が寝ていると下から火を焚いて起こした。(ほぼ虐待)

メアリー・モンタギューの子供が攫われて、煙突掃除夫の親方に売り払われたことがあった。これをうけ、人々はまことしやかに「煙突掃除夫の中には高貴な生まれの子がいる!」と信じた。

煙突掃除夫の子供たちに慈善を施す大人は多かった。

1875年にシャフツベリー卿の尽力で煙突掃除夫法が議会を通過して児童労働が禁止になった。煙突掃除小僧がいなくなったところで、親方は困らなかった。長い刷毛で代用ができたからだ。
今まで刷毛を使わなかったのは、刷毛の経費より子供の人件費のほうが安上がりだったのだ。

チャールズ・ラムの「エリア随筆集」の煙突掃除人讃歌
チャールズ・ディケンズ「オリバー・ツイスト」

19世紀イギリスの貧困層

川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年
この書籍より詳しくまとめ。


19世紀、富者と貧者の二極化。
ロバート・オーエン 人道主義立場からの社会運動、労働運動、社会主義運動。
ヘンリー・メイヒュー(1812〜87)「ロンドンの労働とロンドンの貧民」

※お金について。
ボスウェルの給料は6週間で25ポンド。
買っていた娼婦が一回6ペンス。ボスウェルが毎日とっていた正餐が1シリング。

メイヒューの描いた人々
・行商人(コスタマンガー)
あらゆる商品を市場で仕入れ、屋台、荷車、手押し車、首から吊るした売り箱に入れて売る。
掛け声の節回しで何を売っている行商かわかった。
無学で活気があり、喧嘩、飲酒、賭博を好む行商が多かった。
警官と衝突するとレンガや石などを投げつけて散る。
仲間意識が強く、仲間内で隠語を用いた。同棲女性と入籍しなかった。
子供が生まれると小さい頃から仕事を教えた。荷車、ロバの番、少し大きくなると商品整理や呼売の掛け声など。
少年が14歳になると独り立ちして、ツレの女と共に商売を始めた。少年が少女に絹のマフラーを与えると結婚の代わりとなった。
彼らにとって絹のマフラーは貴重品であり、マフラーは執着の対象(「王の臣」(キングス・メンと呼んで大事にしていたらしい))だった。
貴重品であったために、女性にいちどは贈ったはずのマフラーを賭博の方に売り飛ばす男性もいた。

「拾い屋(スカヴィンジャーズ)」たち
・くず拾い、モク拾い
行商人から見下されていた。
収入は1日6ペンス。
夜明けと共に街に繰り出して、釘を打った棒で落ちているものを拾う。
シケモクを拾う仕事は日本で昔あったが、ロンドンでは今も健在。

・「汚れ落とし(ピュアー)」探し
ただのくず拾いやモク拾いから見されていた。
収入はバケツ1杯で1シリング2ペンス。
ピュアーとは革の汚れを落とすための犬の糞で、バーモンジーの革なめし業者が大量に買い取っていた。

・どぶさらい(トッシャーズ)
収入は週2ポンド。
下水道に潜って作業するためふつうのくず拾いより高度で危険。
(ロンドンで下水道の完備は1865年。
http://london.99ing.net/Entry/16/)
装備はローソクの入ったカンテラ、シャベル、7フィートの竿や熊手。
竿を使っても深みにはまってしまうことがあった。有毒ガスが発生しているところはローソクの炎が消えた。知らないところに出たら、カンテラからローソクを出して、熊手の先につけてローソクの炎が消えないことを確認して進む。
汚泥の中から銀貨、銅貨、骨、銀メッキのスプーン・ナイフ、入れ歯、義眼、指輪、宝石などを拾った。

・泥ひばり(マッドラーク)
収入は1日平均3〜4ペンス。1ペニーしか稼げないこともあった。
溝をさらうほど技術のない者、ほどんど老人、幼児、体の不自由な人だった。
汚泥に一日中浸かっているので冬は大変な作業だったので蒸気工場から流れてくるお湯で足を温めた。泥に埋まっている釘やガラスは危険であった。
汚泥の中から、基本的には石炭の燃えカスを拾った。船から落ちた鉄くず、銅くずが拾えるとラッキーであった。

・さらい屋
収入は様々。水死体は1体につき5シリング。(警察より)
資本がある人が行った。泥ひばりとさらい屋には生活に雲泥の差があった。
小舟一艘とおもりの付いた底引き網を所有。
汚泥の中からあらゆる物を拾い上げた。金属や石炭が収入の中心であった。
産業革命以降テムズ河を行き来する船の増加。橋げたをくぐりそこねた難破船も増加。高価な品、人が沈没した場合、懸賞金が出た。それらを拾い上げると一生安泰であった。
懸賞金のかかった物はごく時々だった。水死体はちょっとしたボーナスになった。
水死体の種類:沈没した石炭運搬船の乗組員、荷上げの人夫、自殺者。
自殺者からは、遺体自体の報奨金5シリングのほか、金目のものが得られた。時計や財布、装身具など。
「どうせ警察が横領するので」という言い分の元水死体を引き上げた本人が行った。
自殺者が多かった場所はウォータールー橋。自殺者の職業で多かったのは売春婦。
トマス・フッドがメアリー・ファーリーという女性の実在の自殺をもとに詩を書いた。映画「哀愁」の舞台にもなった。ディケンズが著作「われら共通の友」のなかでさらい屋を描いている。「デヴィット・カッパーフィールド」では売春婦の転落人生を描いている。

16〜19世紀イギリスの娼婦

川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年
この書籍より詳しくまとめ。


売春婦について。
1959年 路上犯罪法(ストリートオフェンシズアウト)制定。
最盛期のロンドン
…60件に1件が売春宿
…女性の16人に1人が売春婦
古代、中世、ルネッサンス、どんな時代にもイギリスには売春婦は存在した。
(世界中に存在した)

16世紀の娼婦
教会の勢力がまだ強く、夫婦間でも性道徳の制約が厳しい
・夫婦間で過度に愛欲を抱くことの禁止
・水、金、土セックス禁止
・クリスマス前40日セックス禁止
・イースター前40日セックス禁止
・体位の限定(正常位のみ)
→男性間に募る正欲求
例外は教会の売春奨励地域であった。テムズ川南岸サザックSouthworkはロンドン市当局の管轄外にて、陥落施設が集まっていた。乱立する娼家。
※闘犬場、熊いじめ(ベアベイティング)、賭博場、売春宿、劇場など
※有名な劇場 シェイクスピアのローズ座やグローブ座など。その他劇作家P・マッシンジャー、J・フレッチャー、エドモンド・シェイクスピア、R・バーベッジ、P・ヘンズロウ

ウィンチェスター主教によって立てられたウィンチェスターハウスという宮殿は、売春婦を公認して彼女たちからマージンをとっていた。
また、宮殿内に上級階級用の高級娼婦を置き、荒稼ぎしていた。
ピューリタン革命(1641〜1649年)の後は規制される。売春宿×賭博×劇場×
が、強烈な個性を放っていたクロムウェルが死没すると共和制は瓦解し、人々の性的欲求もすぐに噴出した。
庶民よりも上流階級が我慢出来なかった。政治家は特に娼家通いに熱心で、下院で法案を可決するために人数が足りなかったので娼家を虱潰しにして登院させたという記録が残っている。(1666年ピープスの記録)

18世紀ロンドンの娼婦
18世紀、娼婦の実態をよく伝えているのが、おなじみホガースの銅版画と、
ジェイムズ・ボズウェル(1740〜95)の「ロンドン日記」。
ボズウェルは赤裸々にロンドンでの性生活を綴った。彼の収入は6週間で25ポンドだった。
ささやかとはいうものの彼くらいの収入だと、朝食、正餐(1シリング)、夕軽食を外食して、理髪店に行き、友人を訪ねても余裕で暮らせた。
家には女中を雇っていて、帰宅すると足を洗ってくれた。
時々ちょっと高めのビーフステーキを食べたり、闘鶏場でギャンブルしたり夜会にでたりできた。
娼婦を買うこともできたが、ボスウェル自身のポリシーで6ペンス以上の娼婦は拾わなかった。彼はヘイマーで娼婦と遊んだ後、ウェストミンスター橋の上で再び情欲を起こして女を買ったりしていた。17歳の娘を買ったときは「不憫な子だな」と思ったらしい。

当時は和姦年齢(エイジオブコンセント)は12歳だった。1885年にジョセフィン・バトラーによって女子16歳、男子14歳に引き上げられた。
セックスに関する道徳律が強かった当時、少女は強姦であれ和姦であれ、一度セックスをしてしまったあとには「処女でない」という事実だけが残り、あとは売春組織の手に落ちるのがほぼお決まりであった。

大東文化大学経営研究所第四回経営シンポジウム「ホガース銅版画展」図録
遊女一代記
http://www.daito.ac.jp/gakubu/keiei/Institute/zuroku/01-06.html

豪華な生活の上流階級専門娼婦
18世紀末〜19世紀
生徒時代、パブリックスクールでのムチ打ち、木棒で打ち据える尻への体罰に快感を覚えた上流階級男性向け
シャーロット街バークリー夫人の店
顧客:金持ち、政治家、王太子ジョージ4世(!)など
ベッドフォード街コレット夫人の店

コメント:18世紀からSMクラブ通いの男性がいたとは…。