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19世紀イギリスについて、創作活動するために調べたこと。

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19世紀イギリスの貧困認識2

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この書籍を要約
安保則夫「明石ライブラリー81 イギリス労働者の貧困と救済ーー救貧法と工場法」2005年10月20日初版

・ペル・メル・ガゼット紙 pallMallGazette
1883年10月16日以降、都市スラム問題解決のためのキャンペーンを精力的に展開。
編集長W・T・ステッドWilliam Thomas Steadの方針
パンフレット「悲痛な叫び」(1883年10月)の内容を紹介する記事を掲載。続いてそれに対する読者からの投書を掲載。さらに社説を通じて、国家による抜本的な住宅対策の確立を訴えるなど。

・マーンズとプレストンのパンフレット以前の、スラムを扱った著作
E・チャドウィグ、H・メイヒュー、チャールズ・ディケンズCharlesDickensなど。また、スラム住民の生活風俗を報じた新聞記事もあった。
メイヒュー『ロンドンの労働とロンドンの貧民』London Labour and the London Poor)(1861年〜62年全四巻)は、それより以前にメイヒュー自身がモーニングクロニクル紙MorningChronicleに発表した記事(1849年〜50年)を元に書いた。

・大衆にとってのスラムの記事
1880年代以前…スラムの状況を伝える記事は読者にとって好奇心を満足させてくれる対象にすぎなかった
1980年代以後…深刻な社会問題としての認識が広まる。8日刊、週間、月間、季刊問わず各種の新聞雑誌において、スラム問題を様々な角度から取り上げた記事、報告、論文が多く発表された。

・パンフレット以前のスラムに関する記事
『ピクトリアル・ワールド』紙PictorialWorldとデイリーニューズ紙DailyNewsは、マーンズとプレストンのパンフレット(1883年10月)が出版される数カ月前から、貧困についての連載を掲載していた。著者はG・RシムズGeorgeRobertSims。マーンズとプレストンがパンフレットを作成するにあたってシムズの記事を参考にしたことが明らかになっている。(シムズ自身、『貧民の生活状態と恐怖のロンドン』How the Poor Live and Horrible London(1889年)と題する書物の中で、パンフレットの作者から自分の記事を参照したいとの申し出があったので許可した旨を記している。
つまりマーンズとプレストンのパンフレットが貧困への認識を啓蒙した最初の文書ではなかった。しかしながらこのパンフレットが特に社会に大きな反響を呼び起こした理由は、このパンフレットがスラムの存在を、一刻も放置できない社会の問題として読者大衆の脳裏に強く印象付けたことにあった。読者はリアリティとしてのスラムの実態をつきつけられた。「暗黒の世界」「泥沼」「裂け目」「洪水」といった言葉言葉を用いて読者にイメージを植えつけたからだった。
したがって、1883年10月以前にスラム問題を報じた新聞雑誌が多く存在したとしても、マーンズとプレストンのパンフレットのインパクトはまったく損なわれない。むしろこの流れの中にスラムに対する社会の眼差しと感受性が形成されていった課程を読み取れる。

・B・ウェッブ「新しい罪の意識」
ウェッブは人々が新しい罪の意識に目覚めたと指摘する。それは「産業組織が途方もない利潤を生み出す一方で、大部分の人々には見苦しくない程度の生活さえ提供出来ないのではないかという不安」であるという。そしてやがてスラムの貧民がついには文明社会を転覆させるのではないかという恐怖を抱いた。

・救済貧民と労働者の線引き
ブースは社会問題に対処するために、まずは救済に値する貧民を選別することにした。労働者をAからHのグループに分けた。
A 臨時日雇い労働者、浮浪者、順犯罪者など最下層
B 不特定所得者…「極貧者」
C 非定期所得者…「貧困者」
D 定期的小学所得者…「貧困者」
E 定期的標準所得者…貧困線以上
F 上層労働者
G 下層中産階級
H 上層中産階級
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19世紀イギリスの貧困認識

この書籍を要約
安保則夫「明石ライブラリー81 イギリス労働者の貧困と救済ーー救貧法と工場法」2005年10月20日初版

パンフレットが変えた19世紀イギリスの貧困認識
「ロンドンの見捨てられた人々の悲痛な叫びーー零落貧民の状態に関する調査」The Biter Cry Outcast London:An Incqiry into the Condition of Abject Poor
全文20ページのパンフレット。(以下、パンフレット。)
1883年10月にロンドン組合教会同盟London Congregational Unionがパンフレットを出版した。執筆にあたりイーストロンドン礼拝所East London Tabernacleの伝道師と牧師(ロンドンシティ・ミッションの活動家たち)が行った実地調査を元に作成された。
パンフレットの末尾には連絡先としてファリントンストリートのメモリアルホールにあるロンドン組合教会同盟のマーンズ牧師Rev.Andrew Meansの名前を表記。しかし著者自体は匿名。
パンフレット販売に拠る利益はロンドン組合教会同盟の事業のために充てられた。

このパンフレットの冒頭で、いままでのキリスト教会の貧民救済活動は限定的であったり不十分であったと認識を明らかにしている。また、ロンドンについて、上辺では体裁の良い都市を取り繕っているが中心部では道徳的退廃、神を全く信じない人々が溢れており、(教会が人々の)行いを正すような事業は何も行われていないと報告している。

パンフレットの価格は1ペニーであった。廉価であったことと、新聞が積極的に取り上げたことで一大センセーションを引き起こした。宗教関係者、社会運動家、政治家など知識階級が興味を持った。
ウォールAnthony S. Wohlによればパンフレットの出版を境に急激にイングランドじゅうがスラムの現実に関する認識を持ったそうだ。

パンフレットの項目:
前文、礼拝の欠如、彼らの生活状態、不道徳、貧困、何をなすべきかについての提案、地区の状況

前文
「長いあいだの、忍耐強い、まじめな調査の結果」(263ページ)、教会がしているつもりになって大したことをしていなかったことに気づき、宗派を超えてキリスト教会として対策に乗り出すべきであると書かれている。

礼拝の欠如
労働者階級が礼拝に通う習慣が欠落していることを具体的数値で報告している。比較的敬虔な信徒と思われていたオールドフォードですら低い数値を叩き出した。
オールドフォードOld Ford周辺:
「いかなる礼拝も参加しない」147件の長屋住宅に住む118/212家族
ボウコモンBow Common:
「礼拝に参加したことがある」135人/2290人(内訳:大人88人、子供47人)
レスタースクエアLeicester Squareのある通り:
「礼拝に参加したことがある」12家族/246家族
セントジョージズイン・ジ・イーストSt,Georges in-the-Eastのある地区:
「礼拝に通っている」39人/4235人

彼らの生活状態
部屋の平均的な大きさは8フィート平方(1フィートは約30.5センチ)。
腐朽して汚臭のする貸家のどの部屋にも、家族がしばしば2家族住んでいた。※1
報告されている住民のようす
・8回目のお産を終えたばかりの妻
・天然痘にかかって床に付している夫
・半裸の汚い身なりで走り回っている子たち
・地下の一室に父母と3人の子供と4匹の豚を飼っている家庭
・地下の台所で住んでいる7人家族。同じ部屋に死んだ赤子が横たえられている。
・別の部屋では寡婦1人。子供3人。死んでから13日たった子供。夫は馬車を引いていたが自殺した。
・別の部屋では寡婦1人。子供6人。うちふたりは成人(27歳の息子、21歳の娘)。
・別の部屋では親のない姉弟9人。長子は29歳。
・別の部屋では母子。母は部屋を夜半過ぎまでラブホテル替わりに人に貸し、子供は家から追い出されているが行き場がなくやがて戻ってくる。
・ベッドがある部屋では汚れたぼろきれ、削り屑、わら。これらをごちゃごちゃに寄せ集めたベッドを利用している。部屋の借主の寡婦はこのベッドだけを使用し、他の部分を他人に又貸ししている。又貸しの金額は2シリング6ペンス。

におい
・うさぎ、ネズミ、犬など動物を引き裂いた(毛皮職人に売る)あとにのこる毛皮の残りが発する悪臭。
・売り物(昨日の残り)の魚、野菜などの腐敗臭
*窓をあけることができたが換気は、空気が入らないので特に意味がなかった。

部屋が借りられない者の生活状態
上記のような住宅に住めるのはまだよいほうで、共同宿泊所に寝泊まりする者もいた。共同宿泊所は盗品故買人によって運営されることが多かった。男女混合の施設あった。宿泊部屋では一部屋に60〜80のベッドが両側に一列に並べられていた。料金は一泊2ペンスであった。

共同施設に泊まれない者の生活状態
階段や踊り場にたむろしている。踊り場に6〜8人が寝ていることも珍しくない。
正直な労働者が凶悪犯と隣り合わせであることが珍しくない状態であった。
パンフレットは、腐ったみかんが隣のみかんを腐らせるような内容を記載している。

犯罪に手を染める者は多かったか?
正当な労働で賃金を得ようとしている者が多かった。
ブログ内リンク 前回要約したところ

パンフレットが露呈させる「こころの痛むような悲惨な光景」
・みじめな部屋。8人の困窮した子供。父親は既に亡くなった。宣教師が尋ねると母親が棺桶に横たわっていた。
・不潔な屋根裏部屋。壊れたイス一脚、ソースパン(つぶれている)、ボロ着。汚い寝床にボロ着で裸足の4歳の女子が座っている。父親は民兵のために不在。母親はほっつきあるっている。4歳の子は赤子の世話をさせられている。自分の空腹は半日ほったらかしである。


※1 8フィート平方 ○○平方は一辺が○○の正方形なので、2.4メートル×2.4メートルの正方形。
畳でいうと4畳より小さい。数字があやまっているのか?と思うほど過剰に詰め込んでいる。

19世紀イースト・ロンドンのスリ

この書籍から
安保則夫「明石ライブラリー81 イギリス労働者の貧困と救済ーー救貧法と工場法」2005年10月20日初版


268ページ
7歳の子供が盗みで稼げる額
週あたり10シリング6ペンス

まっとうな労働で稼げるのは盗人の半額以下
・マッチ製造工場
盗人と同じ10シリング6ペンスを稼ぐためには、マッチならば週56グロス=8064個のマッチを作らねばならない。1日あたりなら1296個。
箱を乾かす燃料、糊、糸は労働者の自腹。
(1グロス=12ダース=144個)

・ズボン縫製業
1日あたり1シリング
労働時間17時間。朝5時から夜10時。食事なし。

・オーバーコート縫製業
警察官のオーバーコート。
歩合制で1あたり着2シリング10ペンス。1着仕上げるのには2日かかる。

労働者たち
・夫が盲目で自分も右手が手が不自由であるのにマッチ製造工場で朝晩働いている女性
・老夫婦
・酒のためではなく子供の服を質に入れる母親※1

倫理観
まっとうな労働では犯罪者の半分も稼げない状況ではあったが、正しい労働で賃金を得ているもののほうが圧倒的に多かった。

コメント:※1酒(ジン)のために実子を救貧院から釣れだして身ぐるみを剥いで死体をベスナルグリーンの溝に遺棄した母親もいました。

19世紀イギリスの労働者層

川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年
この書籍より詳しくまとめ。

19世紀イギリスの労働者層 煙突掃除

煙突掃除夫
出動:早朝。人々が起きだして暖炉に火を入れる前に掃除をする必要があった。
工場の煙突の場合、早朝になっても煙突が冷え切っていないことがあった。
熱い煙突に服を着て入ると着火するので、裸で煙突に入ることもあった。とうぜん、肘や膝をやけどしたり、肉が落ちたりした。
煙突掃除親方は少年を、こづかいや脅しなどでたくみにやりこめ、やけどの傷に塩水を塗りこめた。肘やひざの皮を強くする行為を行なっていた(ほぼ拷問)。
早朝から働くため、温かい煙突に入るとうたたねする子供がいた。親方は、子供が寝ていると下から火を焚いて起こした。(ほぼ虐待)

メアリー・モンタギューの子供が攫われて、煙突掃除夫の親方に売り払われたことがあった。これをうけ、人々はまことしやかに「煙突掃除夫の中には高貴な生まれの子がいる!」と信じた。

煙突掃除夫の子供たちに慈善を施す大人は多かった。

1875年にシャフツベリー卿の尽力で煙突掃除夫法が議会を通過して児童労働が禁止になった。煙突掃除小僧がいなくなったところで、親方は困らなかった。長い刷毛で代用ができたからだ。
今まで刷毛を使わなかったのは、刷毛の経費より子供の人件費のほうが安上がりだったのだ。

チャールズ・ラムの「エリア随筆集」の煙突掃除人讃歌
チャールズ・ディケンズ「オリバー・ツイスト」

19世紀イギリスの貧困層

川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年
この書籍より詳しくまとめ。


19世紀、富者と貧者の二極化。
ロバート・オーエン 人道主義立場からの社会運動、労働運動、社会主義運動。
ヘンリー・メイヒュー(1812〜87)「ロンドンの労働とロンドンの貧民」

※お金について。
ボスウェルの給料は6週間で25ポンド。
買っていた娼婦が一回6ペンス。ボスウェルが毎日とっていた正餐が1シリング。

メイヒューの描いた人々
・行商人(コスタマンガー)
あらゆる商品を市場で仕入れ、屋台、荷車、手押し車、首から吊るした売り箱に入れて売る。
掛け声の節回しで何を売っている行商かわかった。
無学で活気があり、喧嘩、飲酒、賭博を好む行商が多かった。
警官と衝突するとレンガや石などを投げつけて散る。
仲間意識が強く、仲間内で隠語を用いた。同棲女性と入籍しなかった。
子供が生まれると小さい頃から仕事を教えた。荷車、ロバの番、少し大きくなると商品整理や呼売の掛け声など。
少年が14歳になると独り立ちして、ツレの女と共に商売を始めた。少年が少女に絹のマフラーを与えると結婚の代わりとなった。
彼らにとって絹のマフラーは貴重品であり、マフラーは執着の対象(「王の臣」(キングス・メンと呼んで大事にしていたらしい))だった。
貴重品であったために、女性にいちどは贈ったはずのマフラーを賭博の方に売り飛ばす男性もいた。

「拾い屋(スカヴィンジャーズ)」たち
・くず拾い、モク拾い
行商人から見下されていた。
収入は1日6ペンス。
夜明けと共に街に繰り出して、釘を打った棒で落ちているものを拾う。
シケモクを拾う仕事は日本で昔あったが、ロンドンでは今も健在。

・「汚れ落とし(ピュアー)」探し
ただのくず拾いやモク拾いから見されていた。
収入はバケツ1杯で1シリング2ペンス。
ピュアーとは革の汚れを落とすための犬の糞で、バーモンジーの革なめし業者が大量に買い取っていた。

・どぶさらい(トッシャーズ)
収入は週2ポンド。
下水道に潜って作業するためふつうのくず拾いより高度で危険。
(ロンドンで下水道の完備は1865年。
http://london.99ing.net/Entry/16/)
装備はローソクの入ったカンテラ、シャベル、7フィートの竿や熊手。
竿を使っても深みにはまってしまうことがあった。有毒ガスが発生しているところはローソクの炎が消えた。知らないところに出たら、カンテラからローソクを出して、熊手の先につけてローソクの炎が消えないことを確認して進む。
汚泥の中から銀貨、銅貨、骨、銀メッキのスプーン・ナイフ、入れ歯、義眼、指輪、宝石などを拾った。

・泥ひばり(マッドラーク)
収入は1日平均3〜4ペンス。1ペニーしか稼げないこともあった。
溝をさらうほど技術のない者、ほどんど老人、幼児、体の不自由な人だった。
汚泥に一日中浸かっているので冬は大変な作業だったので蒸気工場から流れてくるお湯で足を温めた。泥に埋まっている釘やガラスは危険であった。
汚泥の中から、基本的には石炭の燃えカスを拾った。船から落ちた鉄くず、銅くずが拾えるとラッキーであった。

・さらい屋
収入は様々。水死体は1体につき5シリング。(警察より)
資本がある人が行った。泥ひばりとさらい屋には生活に雲泥の差があった。
小舟一艘とおもりの付いた底引き網を所有。
汚泥の中からあらゆる物を拾い上げた。金属や石炭が収入の中心であった。
産業革命以降テムズ河を行き来する船の増加。橋げたをくぐりそこねた難破船も増加。高価な品、人が沈没した場合、懸賞金が出た。それらを拾い上げると一生安泰であった。
懸賞金のかかった物はごく時々だった。水死体はちょっとしたボーナスになった。
水死体の種類:沈没した石炭運搬船の乗組員、荷上げの人夫、自殺者。
自殺者からは、遺体自体の報奨金5シリングのほか、金目のものが得られた。時計や財布、装身具など。
「どうせ警察が横領するので」という言い分の元水死体を引き上げた本人が行った。
自殺者が多かった場所はウォータールー橋。自殺者の職業で多かったのは売春婦。
トマス・フッドがメアリー・ファーリーという女性の実在の自殺をもとに詩を書いた。映画「哀愁」の舞台にもなった。ディケンズが著作「われら共通の友」のなかでさらい屋を描いている。「デヴィット・カッパーフィールド」では売春婦の転落人生を描いている。
        
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