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19世紀イギリスについて、創作活動するために調べたこと。

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16〜19世紀イギリスの娼婦

川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年
この書籍より詳しくまとめ。


売春婦について。
1959年 路上犯罪法(ストリートオフェンシズアウト)制定。
最盛期のロンドン
…60件に1件が売春宿
…女性の16人に1人が売春婦
古代、中世、ルネッサンス、どんな時代にもイギリスには売春婦は存在した。
(世界中に存在した)

16世紀の娼婦
教会の勢力がまだ強く、夫婦間でも性道徳の制約が厳しい
・夫婦間で過度に愛欲を抱くことの禁止
・水、金、土セックス禁止
・クリスマス前40日セックス禁止
・イースター前40日セックス禁止
・体位の限定(正常位のみ)
→男性間に募る正欲求
例外は教会の売春奨励地域であった。テムズ川南岸サザックSouthworkはロンドン市当局の管轄外にて、陥落施設が集まっていた。乱立する娼家。
※闘犬場、熊いじめ(ベアベイティング)、賭博場、売春宿、劇場など
※有名な劇場 シェイクスピアのローズ座やグローブ座など。その他劇作家P・マッシンジャー、J・フレッチャー、エドモンド・シェイクスピア、R・バーベッジ、P・ヘンズロウ

ウィンチェスター主教によって立てられたウィンチェスターハウスという宮殿は、売春婦を公認して彼女たちからマージンをとっていた。
また、宮殿内に上級階級用の高級娼婦を置き、荒稼ぎしていた。
ピューリタン革命(1641〜1649年)の後は規制される。売春宿×賭博×劇場×
が、強烈な個性を放っていたクロムウェルが死没すると共和制は瓦解し、人々の性的欲求もすぐに噴出した。
庶民よりも上流階級が我慢出来なかった。政治家は特に娼家通いに熱心で、下院で法案を可決するために人数が足りなかったので娼家を虱潰しにして登院させたという記録が残っている。(1666年ピープスの記録)

18世紀ロンドンの娼婦
18世紀、娼婦の実態をよく伝えているのが、おなじみホガースの銅版画と、
ジェイムズ・ボズウェル(1740〜95)の「ロンドン日記」。
ボズウェルは赤裸々にロンドンでの性生活を綴った。彼の収入は6週間で25ポンドだった。
ささやかとはいうものの彼くらいの収入だと、朝食、正餐(1シリング)、夕軽食を外食して、理髪店に行き、友人を訪ねても余裕で暮らせた。
家には女中を雇っていて、帰宅すると足を洗ってくれた。
時々ちょっと高めのビーフステーキを食べたり、闘鶏場でギャンブルしたり夜会にでたりできた。
娼婦を買うこともできたが、ボスウェル自身のポリシーで6ペンス以上の娼婦は拾わなかった。彼はヘイマーで娼婦と遊んだ後、ウェストミンスター橋の上で再び情欲を起こして女を買ったりしていた。17歳の娘を買ったときは「不憫な子だな」と思ったらしい。

当時は和姦年齢(エイジオブコンセント)は12歳だった。1885年にジョセフィン・バトラーによって女子16歳、男子14歳に引き上げられた。
セックスに関する道徳律が強かった当時、少女は強姦であれ和姦であれ、一度セックスをしてしまったあとには「処女でない」という事実だけが残り、あとは売春組織の手に落ちるのがほぼお決まりであった。

大東文化大学経営研究所第四回経営シンポジウム「ホガース銅版画展」図録
遊女一代記
http://www.daito.ac.jp/gakubu/keiei/Institute/zuroku/01-06.html

豪華な生活の上流階級専門娼婦
18世紀末〜19世紀
生徒時代、パブリックスクールでのムチ打ち、木棒で打ち据える尻への体罰に快感を覚えた上流階級男性向け
シャーロット街バークリー夫人の店
顧客:金持ち、政治家、王太子ジョージ4世(!)など
ベッドフォード街コレット夫人の店

コメント:18世紀からSMクラブ通いの男性がいたとは…。
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ビール街とジン横丁

この書籍からまとめ
川成洋/石原孝哉「ロンドン歴史物語」丸善ライブラリー 平成6年

・ビールの誕生
紀元前4200年 バビロン
紀元前3000年 エジプトで既に国民的に飲まれていた。
8世紀 ビールの長期保存法確立
*南ドイツバイエルンの修道院にて、ビールにホップを混ぜたことで長期保存が可能になり現在の形になりヨーロッパじゅうに広まる。
*キリスト教会では薬草の栽培が盛んであった。薬で病気を直し、「奇跡が起こった」と主張すると容易に出世できた。が、なぜビールまで作っていたのかは不明。

15世紀 イギリスにビールが初めて伝わる。
*意外と遅いのは、15世紀までイギリス家庭で「エール」を作っていたため。
*エールとは保存料のホップの入らないビールで、腐敗防止のためアルコール分が強く香料や蜂蜜で味付けされていた。
*エールの作り方。麦芽を煮る。冷えたら酵母を投入。あとは常温で保存。不純物が多くドロッとした見た目。
*オランダ、ベルギーからホップ入りビールが伝えられ、エールは殆ど作られなくなった。
*とはいってもイギリス人はエールの見た目が好きだったので、ラガービールに移行せずビタービールが飲まれた。(アイルランド人もビター派)
ビタービールの特徴:ホップは強い、炭酸ガスが少ない、黒く濁っている、ざらついている、ぬるい。つまみを食べずにちびちび飲む。

・ビール規制
16世紀 ジェームズ一世(1566〜1625)がビール税を引き上げ
*庶民が気軽に飲むには高い酒になってしまった。
16世紀 ウィリアム三世(1650〜1702)酒造法改訂
*誰でも自由に蒸留酒を酒造出来るようになった。国民へのゴキゲンとり法とも言われるが、地主が自分たちの領土の販路拡大のため圧力をかけたとも言われる。
*ともあれ庶民は喜んで、ジンの酒造にいそしんだ。

・ジン
原料はトウモロコシ、麦。杜松(ねず)の実で香りづけした蒸留酒。アルコール度数は50度。
*当時の貧乏人御用達。産業革命、第二次囲い込み運動にて土地を追われた農民が下級労働者となってスラムに吹き溜まり1日18時間労働を行なっていたため、手軽に酔えるジンが爆発的にヒット。
*ロンドンのある地区では8件に1件がカウンターで酒を売る店。救貧院、監獄、工場、売春宿、理髪店でも堂々と売買。
*街頭で売り子が販売。地下室、屋根裏部屋などでも密売された。
*ジンの売上は年間800万ガロンで、一週間にひとりあたり大ジョッキ2杯(!)飲んでいたことになる。

・ホガースの銅版画、ビール街とジン横丁
ビール街:上流階級が集まる、きれいなロンドン
*背景の教会の尖塔の形から「マーティンズ・イン・ザ・フィールズ」の近くである。

より大きな地図で 地図 を表示
*祝旗=ジョージ二世の誕生日(10月30日)ではないかといわれている。魚売りの女性が楽しそうにビールを飲んでいる。手にしている紙?はバラッド(譚詩)。鍛冶屋、肉屋がビールを飲んでいる。鍛冶屋が捕まえているのはフランス人(ホガースはフランス人嫌い)。古本屋。売っているのはぞっき本(在庫がだぶついている本)だが、ホガースが嫌いな著者ばかり書かれている。ジョージ・ターンブルの絵画論など。右のボロイ家屋は質屋で、上流の街なので質屋通いをする者がいなくつぶれそう。質屋の中の人もビールを注文して扉から受け取っている。
ジン横丁:貧乏人の集まる、ヤバイロンドン
*モデルはウェストミンスターのセント・ジャイルズ教区のルカリー(貧民窟)である。

より大きな地図で 地図 を表示
*酔っ払って子供を階段から落とす女。担架にのった死にそうな人にジンを飲ませる男たち。フイゴを頭に載せた男が子供を串刺しにしている。埋葬されようとしているのはアル中の女。アル中のすえ右上で首つり自殺しているのは、床屋の主人。質屋の看板は上向きである。(画面左)ジンのみたさに鍋ややかんなど台所用品を質草に入れる主婦。画面左下は「ジンロイヤル亭」酒場。書かれている文句は「1ペニーでよっぱらい、2ペンスで泥酔し、ただのみすれば綺麗な藁布団(=監獄)」と書かれているらしい。画面右に、赤ん坊にジンを飲ませる母親(!)

セント・ジャイルス教区1814年ビール洪水事件

・ジンへの対策
*当時酒場の地下室には泥酔した人をころがしておく部屋があったらしい。面倒を見てもらえぬ子供や泥酔者など死ぬ人多数。
*ジンほしさに非人道的な行動が増える。救貧院から釣れだした自分の子供を、絞め殺して死体をベスナルグリーン(地名:BethnalGreen)の溝に遺棄し、身ぐるみを剥いで1シリング4ペンスと引き換えた母親など。
1751年 酒造法の改訂。蒸留酒に高額税をかける
*小売に歯止めがかかり一時鎮圧化。
1780年 反カトリック運動「ゴードン暴動」
*礼拝堂打ち壊しのどさくさでなぜかジン製造所が略奪される。
*ラングディル氏のジン醸造場の事件では打ち壊しでジンが路上に溢れ出た。
すると貧乏人たちが集まってすすりだし倒れたり失神したり。失神した人を狙って暴力スリ集団が略奪を行い、まさに阿鼻叫喚地獄。急性アルコール中毒に拠る死者20人。その他志望者多数。
19世紀 政府、ビール奨励(ジンよりアルコール度数が低いため)
1830年 ビール酒場法(ビアハウスアクト)制定
*ところが統計では、ビールの販売量は増えたがジンの販売量に変化がなかった。(!)結局人々はビールもジンも飲んでいたのだ。。。
19世紀以降 「嫌酒運動(テンペランス)」、「絶対禁酒運動(テイートウトラー)」加熱
*青リボンをつけた団体が禁酒運動を展開。他の禁酒派は酒類の流通自体を制限しようとしたため、酒造業界が反発。アメリカのように禁酒法が施行まで至らなかった。
19世紀後半 節度ある飲酒習慣に移行
*コーヒー、紅茶の台頭、飲酒以外の娯楽の発達。
*現在、イギリスのパブは謙虚に営業している。


コメント:酒を飲むと内臓からオエーとなるタイプなので、「酒に溺れる」という状況がよく分かった。

イギリス猟奇事件

桐生操「イギリス 怖くて不思議なお話」朝日メディア1993年

怪奇、猟奇物語だけ概要を要約する。

・魔女イゾベル・ゴーディ
スコットランド、モレイシャー州出身。農夫の妻。
1662年4月13日に自分が魔女だと自白した。
拷問を受けることなく、魔女としての経歴をペラペラと喋ったのち、エルジンのウェストポートで絞首刑になった。
コメント:魔女は嫌疑をかけられただけでもれなく絞首刑。なぜ自白したのか…考え始めると好奇心くすぐられる。

・フレデリック・ブライ・ボンドとグラストンベリー文書
1907年、グラストンベリー大修道院から依頼され発掘に着手した考古学者。
グラストンベリー大修道院は5世紀に創設され、ブリテンの最も聖なる地と呼ばれた。イエスキリストが訪問した場所とされる。1086年まではアーサー王など歴代の王の墓所だった。16世紀、ヘンリー8世の命令によって修道院は破壊を受けた。数世紀にわたって書物は散逸し、建物の材料は持ち去られてしまった。
ボンドは何から手をつけていいかわからなかったので、友人ジョン・アレイン。バートレットに相談した。
バートレットが提案したのは、なんと自動書記(こっくりさん)であった。
二人は見事「修道士ウィリアム」を筆頭とする心霊を呼び出して、主にラテン語と古い英語で会話しながら建物の寸法を聴きだしていった。あまりに正確な寸法で記述されるため、ボンドは驚いた。
10年にわたりあの世からのメッセージを受け続け、ボンドはエドガー礼拝堂とロレット礼拝堂を発見した。(第一次世界大戦で中断したが、1919年に発掘再開した。)
ボンドは修道士達に敬意を表し、再びグラストンベリーが信仰の中心として栄えるように著書であの世のメッセージのことを暴露した。これに激怒したのは英国教会だった。心霊主義を認めていなかった英国教会は、ボンドが心霊主義に傾倒していると判断し彼をクビにした。のち、ボンドはアメリカにわたって公演して回った。ボンドが去るとグラストンベリーは急速に宗教の地として再び復興した。
コメント:こっくりさんを真顔で提案した友人の気持ちがわからないが。。。

・コッティングリー村の妖精
1965年「デイリー・エクスプレス」記者チェインバーズの取材

・ジョン・バークとウィリアム・ヘア
死体売買人。最初は墓を暴いていたが、新鮮な死体のほうが売れるので徐々に殺人に移行していった。顧客の解剖医は、コロシに感づいていた感があるが、何も言わなかった。警察の調べが入り、ヘアは協力したため罪を免れた。バークだけが1829年1月29日に死刑になった。この死刑囚は服役中に、自分を見に来る野次馬から物見料6ペンスをせしめた。彼らから死体を買っていた顧客の解剖医もまた罪を免れたが、世間から白い目で見られて大学を去った。

・ウィリアム・パーマー
1856年2月逮捕。毒殺魔。

・ハリー・ホワイトクリフ
新進気鋭の作家だが裏の顔は週一回の殺人鬼。

・ジョン・ヘイ 嗜血症の連続殺人鬼
幼い頃自分の血を舐めて嗜血症となった。家畜を殺して血を飲んでいたが、人を殺すように鳴った。血を飲むことで快楽を得ており、知人筋で殺人を繰り返した。
1949年に老女オリビア・デュラン・ディーコンを殺害。
ヘイは知り合いを殺しまくっていたが死体は酸で溶かしていたので、「罪体」が発見されず罪に問われないと思射込んでいた。警察にペラペラ自白。警察が入念に調べたところ胆石、溶けていない左足、義歯、人骨、ハンドバックの留め金など証拠品が多数出たため御用となった。
*デイリー・ミラー紙が「現代の吸血鬼」とかき立てたところ法廷侮辱罪となってしまい罰金1万ポンドを支払った。
コメント:法廷侮辱罪ね…なるほど。
第二段階におけるレイのモデルとしている。ところでヘイは人を殺害して血を飲んでいたが、飲血の際のオーガズムはどこまで得ていたのだろう。老若男女を問わずターゲットにし、セックス殺人に発展していないようなので、どーも血を飲むだけで達して満足していたように思う。いずれにせよサイコキラーの気持ちは全然分からない…。

・ヨークシャーのサトクリフ
1975年の切り裂きジャック
17件、次々と売春婦を殺害して尻や胸、陰部などを切り裂いている。
リーズかブラッドフォードの住民の犯行とみた警察は警察は犯行現場の地図にピンを立て、糸を貼って、移動距離が最小になる地を計算した。警察の思惑通り、サトクリフはブラッドフォードのヒートン地区に住んでいた。
しかし、警察が再調査を行なっているうち、18〜21人の犠牲者は起きてしまう。
サトクリフが売春婦を買ってカーセックスに挑もうとした時、勃たなくなって時間が手間取った。見回り中の巡査が、サトクリフの車の不信な点を見つけて声をかけた。事情聴取の最中、サトクリフは車から離れた所で用を足した。このとき凶器を隠した。サトクリフは警察署に連れていかれた。ナンバーを照合したところ合わなかった。サトクリフのポケットから物干しロープが出てきた。警察は一連の女性殺人の犯人だと踏んだ。現場の足のサイズが一致したが状況証拠が揃わず、サトクリフを逮捕できずに勾留した。警官の閃きでサトクリフが用を足したガソリンタンクの裏を調べたところ、ハンマーとナイフが発見されて御用となった。
サトクリフのこころに殺人癖の芽芽生えたのは28歳のとき。チェコ人女性と結婚したが逃げられ、むしゃくしゃして売春婦を買ったところ勃たなかった。売春婦は彼をバカにして、つり銭を返さなかった。後日偶然再開したが、この売春婦はこの時も釣りを返さなかった。サトクリフはこのときの屈辱感を忘れず、1969年に全くべつの売春婦を殺害した。以後、かれは強迫観念に襲われるように売春婦を殺し続けた。
サトクリフは売春婦を殺害してオーガズムに達したことは一度もなく、殺した相手が売春婦でなかったときは激しく後悔したという。彼には精神薄弱な面があったが精神病ではなかったため、終身刑となった。

ガヴァネス(女家庭教師)

ガヴァネス(女家庭教師)

ヴィクトリア朝時代、中流の婦人(「上流の有閑婦人のように遊んで暮らせるほど裕福でもないし、労働者階級の妻ほど肉体労働に従事できないし…」って感じ)が自立するためのほとんど唯一の手段。
他の手段としては、作家、ジャーナリストなどがあったが成功するのは一握りだった。
ガヴァネスは、生徒が成長すると自動的に失業する。家族ではないので、孤食したり立場は微妙だった。

フィクションのガヴァネス登場率は多い。
サウンド・オブ・ミュージックのマリアなど。

コメント:ヒジョーにキビシー世界だ。元々中流女性だから家に帰ればいいんだろうか。
そういえばジェーン・オースティンなど読んでいない。。。
目的はガヴァネスではないので時間に余裕があれば調べる。
        
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